#南部利剛
南部英磨は1856 年9月11 日盛岡藩主南部利剛の次男として誕生。幼少より学問に優れ1870年8月華頂宮博経親王に随って米国に留学しました。盛岡藩の筆頭家老を務めた東中務は英磨を留学させることで戊辰戦争で賊藩となった盛岡藩の汚名返上を図ったのです。大隈重信の養嗣子となった英磨は早稲田大学の前身東京専門学校で初代校長に就任。英磨は金銭トラブルに巻き込まれた事で1902年大隈家から離縁されました。
英磨は南部家に復籍し盛岡に戻って後、私立作人館中学校の校長に就任したほか、盛岡高等農林専門学校等で講師を務めました(写真は盛岡市にある南部英磨の墓)。 #南部英磨 #盛岡藩 #早稲田大学 #大隈重信
September 25, 2025 at 4:35 AM
幕末期に起こった戊辰戦争。盛岡藩は旧幕府側奥羽越列藩同盟に加担し薩摩長州中心の新政府軍に敗北。その時の藩主が南部利剛です。利剛は1849年藩主になり質素倹約に努め学問を奨励しました。1865年には従来の藩校明義堂を作人館に改称し新しい学問や武術を奨励、教育を刷新しました。蘭学を修めた大島高任らによる西洋医学の普及や科学技術の伝習を目指す洋学校=日新堂の設立を許可しています。
後年原敬や新渡戸稲造など旧盛岡藩出身者からは人材が輩出しますが、いしずえを利剛が築いた、といってもよいでしょう。墓は盛岡市の聖寿禅寺(写真)にあります。 #南部利剛 #盛岡藩 #原敬 #新渡戸稲造 #戊辰戦争 #大島高任
August 31, 2025 at 8:08 AM
原敬は1902年の衆議院議員選挙で盛岡市から出馬し当選しますが、尽力したのが建築家葛西萬司の養父葛西重雄。重雄は1849年盛岡藩士の家に生まれ藩校で学んだ後盛岡藩主南部利剛に仕えました。戊辰戦争で盛岡藩が敗れてからは戦後処理に奔走。古河市兵衛の下で働くことで運が開け、岩手経済界のドンになりました。盛岡で葛西萬司が設計した建物が多く作られたのは重雄の人脈のおかげです。
重雄は1921年から亡くなる1925年まで盛岡市志家町の洋館に住みましたが約2500坪の宅地に見事な庭園を備えた豪邸で現在は岩手放送の敷地、庭園の一部は残っています(写真)。 #原敬 #盛岡 #葛西重雄 #岩手放送 #古河市兵衛
June 24, 2025 at 4:51 AM
永遠に言ってるんですけど安政元年十一月三日「巳刻過御供揃ニ而弘尾へ御出アリ、老公(宗紀)ト御用談ノ後チ、御帰途薩州侯(斉彬)邸へ御立寄リ遊バサし(出典ママ)、南部侯(利剛)も参ラレ、種々御用談アリテ、御饗應ヲ受ケラレ、南部侯ハ酉刻前御帰館、公(宗城)ハ薩州侯ト御湯ナド召サレ、夜ニ入り亥ノ中刻御帰館遊バサル」『宇和島・鹿児島両藩交渉史料』の「御湯ナド召サレ」って何ですかね
June 13, 2025 at 4:17 PM
壬生義士伝(上)を読んでいる。意味を調べた単語、読みがスッとでてこない人名などをメモしておく。読了後に見返す用

御一新
素読
不来方
嚆矢
南部利剛

めちゃめちゃ読みやすくて面白い〜調べものも苦にならないんよ
January 30, 2025 at 5:07 AM