コバヤシ
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イマワノキワというブログで、アニメの感想、TRPGのプレイレポートを書いております。 主にブログの更新通知をします。 https://lastbreath.hatenablog.com/
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 殺し以外に救いの手立てを持たない忍者が、極道に殺される対等さを手に入れてしまったのは、厄介でありある意味幸せでもあるな、と思う。
 ”地獄への特急券”がなけりゃ、クズどもが被害者ぶってるとおり、一方的に殺されるだけの弱者のままだ。
 「んじゃあテメーらが一方的に殺し奪う、フツーの人たちはどうなんだよ!」って話ではあるんだが、そういう人の牙になるために、忍者は異能を刃に鍛える。

 マトモな社会を成り立たせるそういうシステムに、狂った牙を突き立てた極道の反逆は、夢澤の荼毘を狼煙にまだまだ続く。
 一人一殺地獄絵図、油断も隙もありゃしない。
 次回、どんな血みどろが描かれるか。
 楽しみですね!
 極道たちも、自分たちがブン回してる外道がまかり通って良いはずがねぇと解りつつ、ブレーキ踏めずに地獄に真っ逆さまな、はた迷惑なボケカスである。
 忍者の異能が自分たちを愛でぶっ殺してくれることは、地獄の鬼に成り下がったクズども最後の希望であり、それを全霊で受け止めるためには黙って殺されるわけには行かない。
 自分の全部を絞り尽くし、眼の前の鏡に叩き込んで吐き出しきって、ようやく自分じゃたどり着けない奈落の底へと、ゴミは自分たちを投げ捨てられる。
 「テメー自身で始末しろよッ!!」としか言いようがないが、しょーがないじゃん自分じゃできないんだからッ!
 忍者、地獄の公共事業頑張って偉いね…。
 今回夢澤が成し遂げた金星によって、忍者と極道は魔薬の力借りて対等ってのがよく見えた。
 殺して殺して死んで死んで、敵も味方もあっさり倒れていく血みどろの道に、安全圏はない。
 戯けた態度と無限の殺意を兼ね備えた、主役の影たる殺戮道化もいい感じに存在感を主張し、歌舞伎町が崩壊しても物語は続く。
 自己憐憫に酔っ払ったクズどもが、なんかいい感じのお歌がなり立てる隣で、バンッバン一般人死んでるのちゃんと書くの、ピーキーながら独自のバランスだなぁと思う。

 愛もある、悲しみもある。
 でもテメーらの外道が、まかり通っていい理由は何処にもない。
 そう信じればこそ、忍者の眼は血と涙に染まるのだ。
 この歪な鏡像関係は、仲間の死体から絞った血涙でしか泣けない極道さんと、戦場に身を置いて受けた傷から赤い涙を流す忍者くんの対比にも鮮烈だ。
 そこで己の虚無を隠さない不思議な誠実さが極道さんにはあって、でもそれは誰も救わない。
 自分自身絶望していた陽日の異能に、燃やされることなく手を添える強さと優しさを持っていた10歳の忍者とは、真逆の奈落が広がっている。
 逆にいうと、ここで泣けてしまえることが殺戮機械ギリギリの救いであり、忍者くんがこのお話の主役をやっている理由なんだと思う。
 誰かの骸を前にして泣けるからこそ、心から笑いたい。
 その好機は、本当に死ぬ瞬間にしか来ないのか。
 児童臓物売り飛ばされそうになった陽日は、己の異能で世界を焼き、忍者に手を取られて闇から這い上がる。
 地獄の業火も涼しい風と嘯けるほどに、己を鍛え上げた(鍛え切らなきゃ死ぬだけだった)忍者がいなけりゃ、陽日は最悪の極道になっていただろう。
 そこで優しい誰かの手が伸びてくるかは運でしかないし、よりにもよって極道に手を差し伸べられたからこそ、夢澤は仲間との絆で殺しに励む、優しいヤクザになってしまった。
 不倶戴天の敵同士を切り分ける境目は結構危うくて、歪んだ鏡合わせでバケモノ達が踊る。
 はー…アニメのガムテかなりイイな…。
 (画像は”忍者と極道”第3話より引用)
 これで自分たちが抱えた悲惨さ、撒き散らされる殺戮の重たさに背筋を曲げて、笑えねー調子でぶっ殺し合いされてたんじゃぁ、飲み干すのは結構難儀だと思う。
 やり過ぎ感満載のまま突っ走り続け、その狂いを嗤わない大真面目あってこそ、相当に救いがないお話が食べれてる感じはある。
 極道どもがさんざんぶっ殺しておいて自分たちを「弱者」呼ばわりする、歪な憐憫も、真顔過ぎて笑えてくるヤバさで書いてて偉い。
 どう考えても間違ってんだが、それを正せる正気ってのが欠片も残ってんなら、真っ当に生きることを諦めた弱虫なんぞに堕ちてないからなぁ…。
 それでも救われたいから、極道無明は抜けがたいって話よね。
 同時にぶっ殺し合うからって、忍者と極道が抱えた愛やら哀しみやらが全部ウソになるわけではなく、むしろそれがあるからこそ世界に噛みつき、悪行を殺して止めようとする。
 どう考えても間違ってる殺戮の連鎖は、本来人間の一番キラキラした宝物であるはずの慈しみや優しさ…それが眩しいまま輝けない現世の地獄でこそ、芽を出す毒種だ。
 プリンセスが綺麗な夢を守ってはくれない場所で、極道は自分たちが抱えた歪さのまま突っ走り、忍者はそれを刃に変えて誰かを守る。
 殺し以外に道がない、亡者たちの煉獄。
 そのやるせなさを中和するのに、真顔でトンチキぶち込みまくる独自の味わいは、かなりいい仕事をしている。
 それは対等であるがゆえに凄惨で、極道が顔のない災害ではなく、確かに生きて間違えきった人間のなれはてだと認めているから、戦いの前に名乗り合いもする。
 自分がどんな存在であったか、極道も解って欲しいから己を語り、哀しみと怒りを刃に乗せて襲いかかってくる。
 「いや、フツーに話し合えよ…」というマトモさは、ここではもはや通用しない。
 似た者同士でありながら、決定的に道を違えた獣たちの畢竟は、死んでなお止まらない極限の殺戮にこそあるのだ。
 リヲタ同士楽しく話し合う日常は、忍者くんと極道さんに待ち構える地獄の未来を救うでなく、より悲惨に燃やす火種にしかならんわけだな。
 首がぶっ飛んでからが長い、悲しき獣たちの過去回想。
 みんなそれぞれ事情ってのは抱えていて、人間の輝きを信じられなくなるだけの傷も背負っているが、それは忍者たちも同じである。
 どんだけ地獄を見たからって、世界や他人に噛みついて良い道理は何処にもなく、それでも噛みつかなきゃ生きていけない…噛みついてでも生きていたいのが、極道の救いがたき業だ。
 そんなどーしょうもなさに、対等にぶっ殺し上から嘲笑わないことで、忍者は隣に並ぶ。
 解り会えるはずもない正義と悪なんだが、悪を滅して人を嗤わず、愛で殺して外道を止める。
 プリキュアだったら綺麗に生き残る浄化技が、首チョンパにしかならないのがまぁ…
 所詮無能力者と対手を侮っていた陽日に対し、夢澤は仲間との絆、燃え盛る意地、極道への信頼を総身にみなぎらせ、チート野郎を打ち取る大金星を成し遂げる。
 友情・努力・勝利のヒロイズムを愛刀に照らし、なんかいい感じの本懐果たして死んでった感じが漂うけど、まー仲間がカタギ食い散らかすの気にしない、結構なカスだからねコイツ!
 一応”侠”という規範が胸に残っているだけ、夢澤さんは比較的人間よりの極道であり、だからこそ八極道最弱なんだろうなぁ…。
 人非人になればなるほど強いが、真実人間辞めれてないからこそ湿った情を抱えて外道頑張り、おかげでドンドン人が死ぬ。
 や、厄介すぎるぜ極道の自己実現…。
 夢澤 VS 陽日、恵介 VS 忍者が同時並走するカブチカ大決戦。
 酒と涙に酔いつぶれて忍者くんの初動が遅れなければ、特大チート持ちつつ冷静さが足りない陽日も、足元にしがみつかれる事はなかったかもしれない。
 ここら辺、心を殺さなければ仲間が死んでいく忍者非情の掟を改めて変奏している感じもあって、個人的にはとても面白い。
 珍妙語彙とイカレバトルを暴れさせているが、なんだかんだ古典をちゃんと踏まえた作品なのだよ…。
 それにしたって、首飛び腹に大穴相手からが長すぎだけどな!
 スナック感覚の人体損壊からしか、生まれねぇ熱ってのがあるわけよ!!
 (画像は”忍者と極道”第3話より引用)
 殺すべき相手をちゃんと見据え、不幸しかもたらさぬはずの異能と悲惨な過去を、誰かを守るための刃に変える。
 忍者は人間の側に立つことに成功できた極道だし、極道は己を刃と鍛えられなかった忍者だ。
 お互いに通ったものを抱えているから愛で殺す事もできるし、暴力しか握ってないから語り合いより殺し合いが生まれてしまう。
 マトモな判断なんぞお呼びじゃない、異常テンションで奇怪シチュエーションが踊り狂う戦場の中、鏡合わせの潰しあいは激しく熱く、そして哀しく転がっていく。
 まーそれにしたって、極道共の被害者意識と共感能力のなさは凄いけどな…改めて声付きで描かれると、頼むから死んでおいてくれ感が溢れる。
 なのだが、人外の殺戮マシーンなはずの忍者も極道も、胸の奥には深い傷と赤い血が流れており、イヤんになるほど”人間”である。
 仲間を思い、哀歌を捧げる情の後ろでは歌舞伎町が大崩壊し、無辜の民がバンッバン死んでいるわけだが、そこに共感する神経残ってるなら、極道は極道にならない。
 愛が極めて一方通行にしか作用せず、情が暴力としか繋がっていない欠陥人間どもが、血みどろの寂しさブン回して虐殺カマす以上、同じ異能を携えた忍者が殺して止めるしか無い。
 それは異形の獣同士の潰し合いであり、誰が死ぬかわからないからこそフェアだ。
 あるいはその公平性を生み出すべく、極道さんは”地獄の特急券”バラ撒いたのか
 暴力も笑いも悲哀も、ありとあらゆるボリュームが振り切れたイカレ味全部載せな仕上がりの作品であるが、タイトルに「忍者」を選んだのは伊達ではなく、敵の能力を看破し戦い抜く、忍法帖テイストはかなり濃い。
 極道技巧VS暗刃、奇想天外な秘技を駆使して互いの命を狙う戦いは、ちょっとの油断や情が命取りになり、さっくり人は死んでいく。
 手前勝手な憐憫に溺れつつ、他人の血で自分のアイデンティティ書き記そうとしてるクソ迷惑な外道どもを狩る忍者も、今回の陽日のようにあっさり斃れるのだ。
 お互い刃を手に取った者同士、どっちがくたばるかの天秤は平等に揺れていて、そこには情も容赦もない。
 人外の闘いは、心臓抉られ首級が翔んでからが長いッ!
 燃え上がる歌舞伎町地下を舞台に、規格外のグロテスクが暴れ狂う”忍者と極道”第3話である。

 グラスチルドレン編を最後までやりきるためか、ここまでかなり一気に走ったわけだが、それが結果として異様な圧縮力を生み出して、真顔で異常やりまくる作品独自の味が濃縮されていた。
 一般人食い物にするド外道行為に勤しんでるくせに、自分たちを「孤独な弱者」と憐れむ極道共のズレっぷりとか、それはそれとして奴らなりに譲れぬ意地と矜持があったりとか、強者認定されてる忍者も油断一つでサクッと死んだりとか、この作品の基本ルールがよく見える闘いだった。
 ワンダちゃんが花木の無声を聞き届けたからこそ、カボくんは実はお喋りな自分を見つけられた。
 そんな自分を解き放つのに、周りの視線が気になるというのなら、狭く深くたった一つ、自分だけを見つめて踊れば良い。

 そうやって、不自由で不器用な青年がもっと自分らしく生きるための処方箋を、ぎゅっと手渡してくれる人は、偉いし凄いなぁと思う。
 空気読めてない不思議ちゃんのようでいて、ワンダちゃんもよく聞き語りかけれる人よね…。
 そんなふうにお互い向き合いながら、彼らは自分だけの表現を、身体の言葉を探していく。
 そんな自己探求が、”大会”という社会活動と繋がるのが部活ってもんだが…さてどうなるか。
 俺は花木という主人公のネーミングは、本当に面白いなと思う。
 花も木も喋らないと一般的には思われているけど、生け花が生業の一環である自分の感覚としては、彼らはとても良く喋る。
 季節のこと、自分が育ってきた必死さ、命がそこにある手触りを、鋏で断ち切り花器に生ける中で、確かに聞き届ける感触があるのだ。
 この花木の豊かな言葉は、多分聞こうと耳を開けている人にしか届かない声で、でも開け放ってみると極めて雄弁で豊かだ。
 カボくんも、そういう音にならない言葉を常に発している。
 自分自身聞き届けられなかった声を、周りを気にしていない自由人は、しっかり聞き届けて手を伸ばしたのだ。
 そんな旅の仲間として、「私だけを見なよ」とほっぺた掴んで語りかけてくれるワンダちゃんは、優しいし強いなぁと思う。
 カボくんが彼女に救いを見出したのと、釣り合う重さなのかは判らんけども、彼女なりカボくんに期待し受け取るものがあってこそ、ここまでしてくれるのだろう。
 それがどんな形をしているかも、「ダンサーである自分」を世界に解き放つ覚悟を固めつつある青年たちは、踊りながら探っていく。
 何をするにしても体を動かし、体に聞き、体に喋らせながらのフィジカルな足取りは、ダンスという身体表現に出会ってしまった青年たちに相応しくて好きだ。
 同時に自分が今まさに高鳴らせている心臓が、どういう機序で動いてるのか自覚できていない難しさも、カボくんに深く突き刺さっている。
 ワンダちゃんに言われるまで、多分彼は自分に伝えたいことが沢山あって、それが言葉にならないから苦しいということに、思い至ってなかったと思う。
 それを言葉にして伝えてくれる、かけがえない鏡と出会えたことは、彼を深く暗い海から引っ張り上げて、自由に羽ばたける空へと連れて行く…のか?
 ワンダちゃんと一緒に、スキルを磨き感性を豊かにする修行を頑張る中で、カボくんはもっと自分らしい自分へと、己を解き放っていくのだろう。
 カボくんは根暗なダサ坊ってわけではなく、好みの音楽や拍子があり、それにどう乗っかればいいのかを考える頭もある。
 周りの目を気にしている時は、どう踊るのが「正しい」のかを過剰に考えすぎてしまうけど、自分だけのセンスとフィジカルに向き合った時は、どう踊るのが「気持ちいい」かに潜れる。
 この自己洞察力と感性は、一般的に認識されてる「ダンスっぽさ」とは真逆に見えて、舞踏という表現の心臓なんだと思う。
 自分の外側に流れている音を聞き、それが自分の中でどう響くか、どういう動きとして語りかけたいのかを、体を動かしながら確かめていく行為は、身体的であると同時に思弁的だ。
 カボくんは瞳を閉じて外界を遮断し、音を浴びる時に上手く…あるいは自分らしく踊れる。
 その特異なセンスを恩ちゃん部長は既にちゃんと見ていて、アドバイスで縛り付けず自由に羽ばたくのを見守る余裕もある。
 こういう人が部長であったのは、ワンダちゃんと出会えたのと同じくらいのラッキーなのだが、ダンスと出会ってしまった自分、その視線の先にある妖精に夢中なカボくんは、まだそこに目を開けれない。
 でも感性が鋭く、他人が自分にしてくれていることに敏感な青年なら、ちゃんと告げるべき言葉を告げ返せると思う。
 そのための言葉を、今必死に身につけつつあるわけだ。
(画像は”ワンダンス”第2話より引用)
 後にワンダちゃんが見つける、言いたいことが身体の中に詰まっていて、でも言葉にならない苦しさ。
 ダンスという大系、己の身体、流れる音楽を感覚しながら汗を流す時間は、それを飛び越えさせてくれる身体言語を、確かにカボくんの中に積み上げていく。
 そうやって自分だけの辞書を編み上げていく喜びが、カボくんを突き動かしている爽やかな快楽が、抑えめなトーンの中で元気だったのは良かったと思う。
 周囲の人にはなかなか解られにくいんだろうけど、ダンスと出会って汗を流す日々は、とても楽しいはずだ。
 やっぱなー…ホトがそれを解ってくれてる感じで、ぎこちなく距離探り探り近づいてくる姿が好きだ。
 この内的対話が外に発音されるとき、ギシギシ軋んでしまうのがカボくんの難しさでもある。
 音声では意図してないノイズが乗ってしまう想いを、ダンスという言葉なら自由に伝えられると憧れて始めたわけだが、当然そこには個別の難しさがあり、初心者の身体はなかなか思い通りには動かない。
 だが汗一つかくごとに、確かに何かを見つけてダンスの語彙を増やせた実感があればこそ、カボくんは馴染のない技術体系に己を投げ込み、夢中になっていく。
 ここら辺の前のめりな感じが、寡黙で朴訥な青年が思いの外体温高い描写に芯を入れていて、なかなか面白かった。