「バイキンマンをパンチで成敗する」ことこそが「正義」なのだとして、誰もが誰かを「バイキンマン」と呼び続けるこの世界で、いったい誰が真の「バイキンマン」であるかをどのように確定できるんだろうということは考えてしまいますが。
「バイキンマンをパンチで成敗する」ことこそが「正義」なのだとして、誰もが誰かを「バイキンマン」と呼び続けるこの世界で、いったい誰が真の「バイキンマン」であるかをどのように確定できるんだろうということは考えてしまいますが。
ただ「支援者」が、その論点を分かってか分かってなくてかは知らないけど、そのような批判が「些末なこと」だと言っていたり「理想の被害者像の押し付け」だと言ってるのを多く見かけたので、なるほどそれは些末で理想の押し付けだったのかとは思ったし、この論点を特に掘り下げる必要もないんだろうなと「認識を改めた」。
ただ「支援者」が、その論点を分かってか分かってなくてかは知らないけど、そのような批判が「些末なこと」だと言っていたり「理想の被害者像の押し付け」だと言ってるのを多く見かけたので、なるほどそれは些末で理想の押し付けだったのかとは思ったし、この論点を特に掘り下げる必要もないんだろうなと「認識を改めた」。
それを「正義にもとる行為」と評価する人もいるかもしれないが、任意の協力は「義務」と根本的に区別されるし、むしろ個人や個の企業などにかかる負担に鑑みればごく自然な利益計算の帰結のように思われる。
それを「正義にもとる行為」と評価する人もいるかもしれないが、任意の協力は「義務」と根本的に区別されるし、むしろ個人や個の企業などにかかる負担に鑑みればごく自然な利益計算の帰結のように思われる。