@masashitokuda.bsky.social
したがって、印刷による文献の再生産とそれに伴う真偽判定・年代測定の意識の出現は、フーコーが描く「類似から表象への転換」を媒介した重要な要素とみなせるのではないか。『言葉と物』の分析をアイゼンシュタイン的視点で補えば、断絶の「構造的説明」だけでなく、その「技術的契機」も可視化できるように思われる。
要するに、フーコーが「知の転換」を言説構造の内部運動として描いたのに対し、アイゼンシュタインはそれをメディア技術の変化に基づく外的条件として描いた。両者を接続すると、16〜17世紀の知的変容の全体像がより立体的に理解できると思われる。
要するに、フーコーが「知の転換」を言説構造の内部運動として描いたのに対し、アイゼンシュタインはそれをメディア技術の変化に基づく外的条件として描いた。両者を接続すると、16〜17世紀の知的変容の全体像がより立体的に理解できると思われる。
October 29, 2025 at 4:45 PM
したがって、印刷による文献の再生産とそれに伴う真偽判定・年代測定の意識の出現は、フーコーが描く「類似から表象への転換」を媒介した重要な要素とみなせるのではないか。『言葉と物』の分析をアイゼンシュタイン的視点で補えば、断絶の「構造的説明」だけでなく、その「技術的契機」も可視化できるように思われる。
要するに、フーコーが「知の転換」を言説構造の内部運動として描いたのに対し、アイゼンシュタインはそれをメディア技術の変化に基づく外的条件として描いた。両者を接続すると、16〜17世紀の知的変容の全体像がより立体的に理解できると思われる。
要するに、フーコーが「知の転換」を言説構造の内部運動として描いたのに対し、アイゼンシュタインはそれをメディア技術の変化に基づく外的条件として描いた。両者を接続すると、16〜17世紀の知的変容の全体像がより立体的に理解できると思われる。
アイゼンシュタインは印刷技術の普及が知識の「安定化」「可視化」「比較可能化」をもたらし、結果として文献の真正性・年代・出典といった問題を生じさせたと論じた。これにより、聖書や古典文献のテクスト批判が発展し、聖なる権威に基づく知から、可視的な証拠と体系的分類に基づく知への移行が促された。つまり、印刷革命が「表象の秩序」を支える物質的条件を整えたとも言える。(文献の比較については『古典の継承者たち』の最終章も参照した方がよい)。→
October 29, 2025 at 4:45 PM
アイゼンシュタインは印刷技術の普及が知識の「安定化」「可視化」「比較可能化」をもたらし、結果として文献の真正性・年代・出典といった問題を生じさせたと論じた。これにより、聖書や古典文献のテクスト批判が発展し、聖なる権威に基づく知から、可視的な証拠と体系的分類に基づく知への移行が促された。つまり、印刷革命が「表象の秩序」を支える物質的条件を整えたとも言える。(文献の比較については『古典の継承者たち』の最終章も参照した方がよい)。→
つまり、現在の学問体系としての「近代歴史学」の祖であって、「近代的歴史」の観念や認識論の系譜とは別の次元である。
October 29, 2025 at 4:24 PM
つまり、現在の学問体系としての「近代歴史学」の祖であって、「近代的歴史」の観念や認識論の系譜とは別の次元である。
それでも出版の意義はある。今日のフーコー研究が『言葉と物』を抜きにして進められている現状には強い疑問を感じるからだ。『社会は防衛しなければならない』にも『安全・領土・人口』にも『言葉と物』は繰り返し参照されている。すなわち、「統治性」概念の核心のひとつは、『言葉と物』が描き出した「人間諸科学の成立」にこそあるからだ。
October 29, 2025 at 4:16 PM
それでも出版の意義はある。今日のフーコー研究が『言葉と物』を抜きにして進められている現状には強い疑問を感じるからだ。『社会は防衛しなければならない』にも『安全・領土・人口』にも『言葉と物』は繰り返し参照されている。すなわち、「統治性」概念の核心のひとつは、『言葉と物』が描き出した「人間諸科学の成立」にこそあるからだ。
また、サボが意図的に簡潔にしているとしても、読者が一般文法と比較言語学、博物学と生物学、富の分析と経済学といったそれぞれの学問が何をしていたのかを知らなければ、フーコーの議論を理解することは難しい。例えばフーコーは、生物学史の主流的理解に逆らってキュヴィエを再評価している。このような各学問内部の方法論や認識論の変化を理解していなければ、『言葉と物』の構造は見えてこない。最低限、なぜ一般文法が古典主義時代に登場し、その後なぜ比較文法・比較言語学が出現したのかを理解していないと、この書物は読めないだろう。→
October 29, 2025 at 4:15 PM
また、サボが意図的に簡潔にしているとしても、読者が一般文法と比較言語学、博物学と生物学、富の分析と経済学といったそれぞれの学問が何をしていたのかを知らなければ、フーコーの議論を理解することは難しい。例えばフーコーは、生物学史の主流的理解に逆らってキュヴィエを再評価している。このような各学問内部の方法論や認識論の変化を理解していなければ、『言葉と物』の構造は見えてこない。最低限、なぜ一般文法が古典主義時代に登場し、その後なぜ比較文法・比較言語学が出現したのかを理解していないと、この書物は読めないだろう。→
なかでも最も残念なのは、近代以降における「歴史」概念の扱いについてだ。『言葉と物』の最大の焦点の一つはこの「歴史」であるにもかかわらず、サボはその重要性を十分に展開していない。フーコーは第7章第1節と第10章第4節で「歴史」を節題に掲げ、19世紀以前には存在しなかったこの概念がどのようにして生まれたのか、そして「人間」が「非歴史化」されたうえで、あたかも自ら歴史を担う主体のように登場する過程を描いている。この点を抜きにして『言葉と物』を読むことはできない。→
October 29, 2025 at 4:14 PM
なかでも最も残念なのは、近代以降における「歴史」概念の扱いについてだ。『言葉と物』の最大の焦点の一つはこの「歴史」であるにもかかわらず、サボはその重要性を十分に展開していない。フーコーは第7章第1節と第10章第4節で「歴史」を節題に掲げ、19世紀以前には存在しなかったこの概念がどのようにして生まれたのか、そして「人間」が「非歴史化」されたうえで、あたかも自ら歴史を担う主体のように登場する過程を描いている。この点を抜きにして『言葉と物』を読むことはできない。→
すなわち、19世紀の自由主義が自らの限界を超えて「社会」を統治の新たな対象として発見したとき、統治性は「自由の統治」から「生命と社会の管理」へと転換したのである。
この意味で、フーコー、エワルド、マムダニはそれぞれ異なる空間(ヨーロッパ内部と植民地外部)を分析しながら、共通して自由主義的governmentalityから社会的governmentalityへの移行を記述している。彼らの議論は、19世紀という時代を、単なる政治経済的変化の時代ではなく、「社会的なもの」が統治の中心的カテゴリーとして出現した時代として描き出している。
この意味で、フーコー、エワルド、マムダニはそれぞれ異なる空間(ヨーロッパ内部と植民地外部)を分析しながら、共通して自由主義的governmentalityから社会的governmentalityへの移行を記述している。彼らの議論は、19世紀という時代を、単なる政治経済的変化の時代ではなく、「社会的なもの」が統治の中心的カテゴリーとして出現した時代として描き出している。
October 29, 2025 at 4:06 PM
すなわち、19世紀の自由主義が自らの限界を超えて「社会」を統治の新たな対象として発見したとき、統治性は「自由の統治」から「生命と社会の管理」へと転換したのである。
この意味で、フーコー、エワルド、マムダニはそれぞれ異なる空間(ヨーロッパ内部と植民地外部)を分析しながら、共通して自由主義的governmentalityから社会的governmentalityへの移行を記述している。彼らの議論は、19世紀という時代を、単なる政治経済的変化の時代ではなく、「社会的なもの」が統治の中心的カテゴリーとして出現した時代として描き出している。
この意味で、フーコー、エワルド、マムダニはそれぞれ異なる空間(ヨーロッパ内部と植民地外部)を分析しながら、共通して自由主義的governmentalityから社会的governmentalityへの移行を記述している。彼らの議論は、19世紀という時代を、単なる政治経済的変化の時代ではなく、「社会的なもの」が統治の中心的カテゴリーとして出現した時代として描き出している。
法の普遍性に代わって、「慣習法」が社会を安定させる装置として機能し、被植民者の世界(先住民性)を形成した。ここでも、自由主義的統治がその普遍性の限界に直面し、「社会固有の秩序」への傾斜が現れている。
この二つの議論をフーコーの視点から読み合わせると、共通するのは「社会的なもの(≒慣習的なもの)」の発見である。エワルドがフランス国内の労働とリスク管理に、マムダニが植民地の文化的差異の管理に見いだしたのは、いずれも統治の焦点が「個人」から「集団」へ、「法」から「社会の内部的法則」へと移行する過程であった。→
この二つの議論をフーコーの視点から読み合わせると、共通するのは「社会的なもの(≒慣習的なもの)」の発見である。エワルドがフランス国内の労働とリスク管理に、マムダニが植民地の文化的差異の管理に見いだしたのは、いずれも統治の焦点が「個人」から「集団」へ、「法」から「社会の内部的法則」へと移行する過程であった。→
October 29, 2025 at 4:05 PM
法の普遍性に代わって、「慣習法」が社会を安定させる装置として機能し、被植民者の世界(先住民性)を形成した。ここでも、自由主義的統治がその普遍性の限界に直面し、「社会固有の秩序」への傾斜が現れている。
この二つの議論をフーコーの視点から読み合わせると、共通するのは「社会的なもの(≒慣習的なもの)」の発見である。エワルドがフランス国内の労働とリスク管理に、マムダニが植民地の文化的差異の管理に見いだしたのは、いずれも統治の焦点が「個人」から「集団」へ、「法」から「社会の内部的法則」へと移行する過程であった。→
この二つの議論をフーコーの視点から読み合わせると、共通するのは「社会的なもの(≒慣習的なもの)」の発見である。エワルドがフランス国内の労働とリスク管理に、マムダニが植民地の文化的差異の管理に見いだしたのは、いずれも統治の焦点が「個人」から「集団」へ、「法」から「社会の内部的法則」へと移行する過程であった。→
マムダニの『Define and Rule』もまた、同じ19世紀における統治性の再編を、植民地という文脈から分析する。19世紀前半の自由・啓蒙・功利主義に基づいて、被植民者を「抽象的個人」として統治するという統治の正当性があったが、1857年のインド大反乱(セポイの乱)を通じて、19世紀後半、帝国は啓蒙的同化政策に基づく自由主義的法の普遍主義を放棄し、各植民地社会の「固有の慣習(custom)」を尊重するという名目のもとに、間接統治を導入した。このとき、統治の対象は「抽象的な人間」ではなく、「社会的差異」に置き換えられる。→
October 29, 2025 at 4:05 PM
マムダニの『Define and Rule』もまた、同じ19世紀における統治性の再編を、植民地という文脈から分析する。19世紀前半の自由・啓蒙・功利主義に基づいて、被植民者を「抽象的個人」として統治するという統治の正当性があったが、1857年のインド大反乱(セポイの乱)を通じて、19世紀後半、帝国は啓蒙的同化政策に基づく自由主義的法の普遍主義を放棄し、各植民地社会の「固有の慣習(custom)」を尊重するという名目のもとに、間接統治を導入した。このとき、統治の対象は「抽象的な人間」ではなく、「社会的差異」に置き換えられる。→
これにより、自由主義の基礎であった自己責任の原理は動揺し、「社会的なもの」に固有の法則が注目される。国家はその法則のもとに、社会保険や労働法などの形でリスクを再配分し、個人の自由を保障しつつも、社会的安全の名の下に生を調整する新たな統治を組み立てた。エワルドが描くのは、自由主義の内部から「社会国家・福祉国家」が生成する過程である。→
October 29, 2025 at 4:04 PM
これにより、自由主義の基礎であった自己責任の原理は動揺し、「社会的なもの」に固有の法則が注目される。国家はその法則のもとに、社会保険や労働法などの形でリスクを再配分し、個人の自由を保障しつつも、社会的安全の名の下に生を調整する新たな統治を組み立てた。エワルドが描くのは、自由主義の内部から「社会国家・福祉国家」が生成する過程である。→
エワルドの『The Birth of Solidarity』は、19世紀フランスにおける労働災害と社会保険の成立を、統治性の変容として捉える。19世紀前半における労働災害は、自由主体に基づく自己責任であり、労災への支援もブルジョアの自由意志に基づく慈愛が基本であった。19世紀中頃から、ケトレーらによる統計学の発展は、事故や貧困を個人の過失ではなく「社会的リスク」として把握する視点を生み出した。さらに、資本主義の進展(工場労働・機械制大工業の発展)で事故を個人に帰責することに疑問が生まれ(労働過程が複雑で、機械主導なので、誰の責任かを示せないから)労使間の摩擦の原因になってきた。→
October 29, 2025 at 4:04 PM
エワルドの『The Birth of Solidarity』は、19世紀フランスにおける労働災害と社会保険の成立を、統治性の変容として捉える。19世紀前半における労働災害は、自由主体に基づく自己責任であり、労災への支援もブルジョアの自由意志に基づく慈愛が基本であった。19世紀中頃から、ケトレーらによる統計学の発展は、事故や貧困を個人の過失ではなく「社会的リスク」として把握する視点を生み出した。さらに、資本主義の進展(工場労働・機械制大工業の発展)で事故を個人に帰責することに疑問が生まれ(労働過程が複雑で、機械主導なので、誰の責任かを示せないから)労使間の摩擦の原因になってきた。→
以下メモ。
両者の著作を通じて見えてくるには、19世紀を通じて、西欧社会と植民地世界の双方において、自由主義的な統治の合理性は決定的な転換を経験したということ。フーコーが「統治性(governmentality)」の概念で示したのは、主権や規律を超えて、「人口の生」を対象とする新しい統治の合理性である。そこでは、統治の目的は個人の服従でも法の適用でもなく、社会全体の安定と生の最適化に置かれる。この統治性の変化を異なる文脈で具体化したのが、フランソワ・エワルドとマフムード・マムダニの研究である。→
両者の著作を通じて見えてくるには、19世紀を通じて、西欧社会と植民地世界の双方において、自由主義的な統治の合理性は決定的な転換を経験したということ。フーコーが「統治性(governmentality)」の概念で示したのは、主権や規律を超えて、「人口の生」を対象とする新しい統治の合理性である。そこでは、統治の目的は個人の服従でも法の適用でもなく、社会全体の安定と生の最適化に置かれる。この統治性の変化を異なる文脈で具体化したのが、フランソワ・エワルドとマフムード・マムダニの研究である。→
October 29, 2025 at 4:04 PM
以下メモ。
両者の著作を通じて見えてくるには、19世紀を通じて、西欧社会と植民地世界の双方において、自由主義的な統治の合理性は決定的な転換を経験したということ。フーコーが「統治性(governmentality)」の概念で示したのは、主権や規律を超えて、「人口の生」を対象とする新しい統治の合理性である。そこでは、統治の目的は個人の服従でも法の適用でもなく、社会全体の安定と生の最適化に置かれる。この統治性の変化を異なる文脈で具体化したのが、フランソワ・エワルドとマフムード・マムダニの研究である。→
両者の著作を通じて見えてくるには、19世紀を通じて、西欧社会と植民地世界の双方において、自由主義的な統治の合理性は決定的な転換を経験したということ。フーコーが「統治性(governmentality)」の概念で示したのは、主権や規律を超えて、「人口の生」を対象とする新しい統治の合理性である。そこでは、統治の目的は個人の服従でも法の適用でもなく、社会全体の安定と生の最適化に置かれる。この統治性の変化を異なる文脈で具体化したのが、フランソワ・エワルドとマフムード・マムダニの研究である。→
したがって、ランケは歴史研究の方法論を近代化したが、フーコーの言う意味での「歴史という知の近代的構造」を生み出したわけではない。彼の功績は、認識論的転換ではなく、歴史学を科学的探究として制度化した点に限定して評価すべきである。というのが私の立場。
October 29, 2025 at 4:01 PM
したがって、ランケは歴史研究の方法論を近代化したが、フーコーの言う意味での「歴史という知の近代的構造」を生み出したわけではない。彼の功績は、認識論的転換ではなく、歴史学を科学的探究として制度化した点に限定して評価すべきである。というのが私の立場。
これに対し、フーコーが『言葉と物』で論じた「歴史の成立」は、言語学や生物学などの「生命・言語・労働」をめぐる認識論的転換として説明される。つまり、フーコーにとって「近代の歴史」とは、生命や言語のような「生成的秩序」を可視化する学の出現に伴って、時間と変化が知の内部に組み込まれた現象である。ランケの史料批判はこの意味では、近代的「歴史的思考」の表層的実践にすぎず、フーコーの分析のように、そもそも「歴史」という知のあり方がどのように成立したかを説明するものではない。→
October 29, 2025 at 4:01 PM
これに対し、フーコーが『言葉と物』で論じた「歴史の成立」は、言語学や生物学などの「生命・言語・労働」をめぐる認識論的転換として説明される。つまり、フーコーにとって「近代の歴史」とは、生命や言語のような「生成的秩序」を可視化する学の出現に伴って、時間と変化が知の内部に組み込まれた現象である。ランケの史料批判はこの意味では、近代的「歴史的思考」の表層的実践にすぎず、フーコーの分析のように、そもそも「歴史」という知のあり方がどのように成立したかを説明するものではない。→
この意味では、ランケの「歴史」は近代的合理主義よりも中世的秩序観に近い。しかし、ランケは、史料批判と実証主義的研究方法を確立した。ランケは歴史を神学的教義の補助ではなく、文書・記録という一次資料を通して再構成される「経験的知」として位置づけた。史料の真偽を精査し、史料自体を歴史認識の基礎とする方法論は、それまでの年代記的・道徳的な歴史叙述からの転換だった。それゆえ彼は「近代」歴史学の祖である。しかしそれは、らんけの「近代性」が知の制度と方法の次元にあるとも言える。→
October 29, 2025 at 4:00 PM
この意味では、ランケの「歴史」は近代的合理主義よりも中世的秩序観に近い。しかし、ランケは、史料批判と実証主義的研究方法を確立した。ランケは歴史を神学的教義の補助ではなく、文書・記録という一次資料を通して再構成される「経験的知」として位置づけた。史料の真偽を精査し、史料自体を歴史認識の基礎とする方法論は、それまでの年代記的・道徳的な歴史叙述からの転換だった。それゆえ彼は「近代」歴史学の祖である。しかしそれは、らんけの「近代性」が知の制度と方法の次元にあるとも言える。→
ちなみに、近代日本において言語学や人類学が産んだ(特異な)「人間(集団)」が、植民地の人口統治の対象になっていくことを論じたのが私の本です。ちょっとだけ宣伝。
June 12, 2025 at 11:56 AM
ちなみに、近代日本において言語学や人類学が産んだ(特異な)「人間(集団)」が、植民地の人口統治の対象になっていくことを論じたのが私の本です。ちょっとだけ宣伝。