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一般通過インキャ
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#東京大空襲 を体験した母だが、その後、アメリカの報道特派員の仕事を手伝うなどして、したたかに戦後を生きのびてきた。当時はアメリカを恨むという気持ちよりも、戦勝国の技術や習慣を盗んで学ぼうという前向きな姿勢だったようだ。しかし母はテレビで湾岸線等やイラク戦争のことをやっているとテレビを消した。あの爆撃機が爆弾を落とす下に人が逃げまどっていることを知っているからだ。
March 9, 2024 at 11:04 PM
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4/4) 朝の光景は焼け野原と焼死体だった。電信柱の下で溶けた電線が頭に貼りついて死んでいた人、大八車を引いた人とその家族が逃げる格好でそのまま彫刻のように焦げていたなど。人の運命はわからない。みんなと一緒に立川まで逃げていたら生きていなかっただろうと母は言う。 #東京大空襲
March 9, 2024 at 10:59 PM
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3/4) 立川までたどり着いた人々は川に飛びこんだはいいものの、上から次々に人が飛びこんでくるので溺れるか潰されるか、まわりの火災で焼かれるかで死んでしまった。母は一晩森永牛乳のプールに浸かっていたが、朝には子どもの両親が見つけてくれて、命の恩人と感謝されたそうだ。 #東京大空襲
March 9, 2024 at 10:58 PM
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2/4) 緑町の人々は立川(たてかわ、隅田川に繋がる堀で現在は首都高が上を通っている)を目指して逃げたが、母は子どもを連れていて走れなかったので両国駅近くの森永牛乳のビルに逃げこみ、炎から逃れるためにそこのプールに入った。火のついた畳や戸板が熱風に煽られて飛んできたそうだ。 #東京大空襲
March 9, 2024 at 10:57 PM
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1/4) 東京大空襲当時、母は13歳で、両国駅近くの緑町に住んでいた。空襲が始まった時、母は隣の家の人に小さな子どもを預けられた。その子の両親は落ちてくる焼夷弾をはたきで叩いて消すという(まったく無駄な)作業をしていた。 #東京大空襲
March 9, 2024 at 10:57 PM