3bekochang.bsky.social
@3bekochang.bsky.social
ドーナツ至上主義🍩
自己治療のための省察メモ(なので誤植はたいがい放置)
こないだ釘をさしたんだけど、「マナー違反のならず者集団」みたいなのをあげつらうときに、なんの悪気もなく「民度」とか口にしてしまう習慣が一般にかなり広まっていたりするのも気になる。
November 14, 2025 at 2:30 AM
「反日勢力には質問をさせるな⇔国会で首相をトラップにはめる反日勢力」
次はこうですか。
November 14, 2025 at 2:19 AM
「日本政府は台湾を独立国として承認していません」という見解に(なぜなら日本にとっては「自国」の範疇だからである)を付け加えたことになりかねない、というのは素人の誤解なのかな。
November 14, 2025 at 2:12 AM
台湾ルーツを持つ「日本人」にも政府の外交と国籍法の都合で大変な思いをしてる人がいますけど。
November 14, 2025 at 2:05 AM
そんなに不正な世の中なら、他人を踏み台にせずに「よき仕事」だの「よき家族」だのが手に入ることがあるのかな。
November 12, 2025 at 4:17 AM
仕事や子育てに生き甲斐を見いだせないなんて、みたいな危険きわまりない話とあまり遠くないことになってる批判もあると思う。
November 12, 2025 at 4:09 AM
「「統制的理念」ですか、わかりました。議場の掛け軸にしておきましょう」
November 11, 2025 at 2:58 AM
「時間無制限で議論するなら経済活動は「みんな」のうちの「下働き」にさせるってことでいいですか」「他の組織の都合もあるし、不十分だからといっていつまでも話しあうわけいきませんよね」
November 11, 2025 at 2:54 AM
「「みんな」でアーギュメントによって決着をつけよう」みたいな特殊な訓練を受けた人に有利な条件を設定するほうが、有害なエリーティズムに近い感じはする。
November 11, 2025 at 2:50 AM
ローティのスタンスをこないだ「エリート主義的」と評した記憶があるけど、正確にはヒロイズム(英雄主義)と言ったほうがよいかもしれない。まあ「哲学の改造」みたいな営みが
ヒーロー列伝みたいになりやすいのは(半ば必然とはいえ)あまり好きではないなあ。
November 11, 2025 at 2:44 AM
[承前]その何かとは、すでに存在していたものの正確な表象では【なく】、(少なくともさしあたりは)説明もあらわな記述もなしえないものなのである。」(『哲学と自然の鏡』1979=1993:428-429、【 】は原文では傍点で強調)
November 9, 2025 at 8:38 AM
「体系的大哲学者は建設的であり、議論を提起する。啓発的大哲学者は反抗的であり、皮肉やパロディーやアフォリズムを提示する。彼ら[啓発的哲学者]は、自分たちの反抗する時代が終われば、自分たちの著作も意味を失うことを知っている。彼らは【意図的に】傍流である。体系的大哲学者は、大科学者と同様に永遠性をめざして建設する。啓発的大哲学者は、彼ら自身の世代のために破壊する。体系的哲学者は、自分たちの主題を科学の安全な道の上に据えたいと願っている。啓発的哲学者の願いは、詩人が時折かいま見せてくれる驚き―この世にもまだ新しい何かがあるという驚き―の感覚のために、余地をあけておくことである。[続く]
November 9, 2025 at 8:32 AM
なので、いい区別かはわからないけど、ローティ『自然の鏡』で言う(永続的な真理を目指して理論体系を構築する「体系的哲学者」ではなく)デューイ、ハイデガー、後期ヴィトゲンシュタインが入れられる「啓発的哲学者」の側に、わたしはバトラーを入れて読んできたところがある。
November 9, 2025 at 8:24 AM
その意味では、運動から出てきた学術書ふう(政治文書)の『ジェンダー・トラブル』が、人びとの自己創造のための語彙を増やすのに果たしたものは大きいなと思う。
bsky.app/profile/3bek...
語彙の開発については、公平に見てここ数十年は社会的マイノリティによる社会運動や政治運動のほうが、プロの大文字芸術よりも明らかに多くのものを提供してきたのは確かでしょうね。
November 9, 2025 at 8:12 AM
もともとめちゃくちゃに分裂していたのに、無理に収斂させようとしていたことに気づくという。怠惰や横着で収束しかけてしまうときはあるけれども。
November 9, 2025 at 4:18 AM
わたしが「トロツキーと野生の蘭」から勝手に得た教訓は、「ひとつの(「表の」)顔なり立場なり技能なりであれもこれもやらねばならない」という前提は捨てたほうがよいことがしばしばある、ということなのであった。
November 9, 2025 at 4:07 AM
「知的な」訓練を受けた専門職の人は言葉を操る技術と肩書きによってSNSで影響力を得やすいし、一旦獲得した影響力は自身の評判リスクと表裏になるから、「いつも学者として/弁護士として/医師として」発言する(しなければならない)ことになりやすいんだと思う。
November 9, 2025 at 3:56 AM
専門性を活かせればそれはそれでいいのかもしれない(しかし世の中を「よくする力」が仮にあるならば同じ「力」で「悪くする」こともできるリスクは甘受しないといけない)けど、今のところ活かせないなら専門性とは関係なく言葉をかわすなり街頭に行くなり沈思黙考したりそれぞれのやり方を取ればいいだけでしょう。
November 9, 2025 at 3:43 AM
これは芸術に限らず学術その他の専門性にも言えることだけど、自分の従事する専門的活動が直接に世の中をよくすることができなさそうなくらいで「自分には何もできない」と思ってしまうのは、「自分は専門的な権能から他の人にできない特別なことをすべき」という使命感みたいな?ものに引きずられすぎなんだと思う。
November 9, 2025 at 3:37 AM
芸術の側が自己宣伝のためにコンセプトを語るときにしばしば運動から生まれた語彙や語りかたを使ったり、あるいは運動と不可分な芸術がたくさん出てくるのはその意味では道理かと。
November 9, 2025 at 3:28 AM
アイデンティティの「戦略的」強調が犠牲者化をはじめとする問題につながるリスクはあるとしても。
November 9, 2025 at 3:21 AM
語彙の開発については、公平に見てここ数十年は社会的マイノリティによる社会運動や政治運動のほうが、プロの大文字芸術よりも明らかに多くのものを提供してきたのは確かでしょうね。
November 9, 2025 at 3:15 AM
できる限り擁護するつもりだったけどここはちょっと無理ね。
November 7, 2025 at 6:58 AM