プロテスタンティズム倫理と資本主義の精神bot
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1904-05年発刊、マックス・ヴェーバー著、3時間毎に1回ランダム+αにつぶやく仕様です。 x https://twitter.com/bot03140572 Mastodon https://mastodon.social/@TheProtestantEthic
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人間のこの内面的な孤独の感情は、たんなる被造物はどのようなものでも、神からも完全に拒絶した無価値なものであるという厳しい教義と結びついていた。そのためピューリタニズムは文化のうち全ての感覚的な要素と感情的な要素には、絶対的に否定的な姿勢をとるようになった
ドイツでプロテスタンティズムを信仰したのは、帝国のうちで自然条件に恵まれているか、交通の要地にあって最も豊かな地方が多かったのであり、特に多数の富裕の都市だった。
再洗礼派の宗教性の聖霊的な性格のために、聖書の教えを厳密に遵守するという原則は常に確固として守られたわけではなかった。(略)書き記された古文書としてではなく、信者の日常の生活のうちで働く聖霊の力として、(略)個々の信徒に直接語りかけられる言葉が存続しているこそが真の教会の証
禁欲的なプロテスタンティズムの宗教的な基礎観念と経済的な日常生活の様々な原則のあいだにどのような関係があるかを分かりやすく示すためには、何よりも信徒の魂への配慮に関わる実践から生まれてきた神学的な文章を検討する必要がある。
少なくともメノー派とクエーカー派では、軍隊に入隊して兵器を使用する事と、公務員として宣誓することが厳密に拒否されたので、実際には官職につく資格が失われることになり、この拒否は実質的に維持されていたのである。
すでにカルヴァンは、民衆はすなわち労働者と手工業者の大衆は、貧しい間だけに神に従順であると語っていたのであり、カルヴァンのこの言葉はたびたび引用されるようになる。
セバスティアンフランクはすでに、宗教改革の意義はすべてのキリスト者が生涯にわたって修道士とならねばならなくなったことにあると指摘している。
(予定説について)最後に神ですら助けることはできない。キリストが死んだのも選ばれた者たちの為であって、神は選ばれた者たちの為に、永遠の昔からキリストを死に定めていたのである。
禁欲的なプロテスタンティズムの宗教的な基礎観念と経済的な日常生活の様々な原則のあいだにどのような関係があるかを分かりやすく示すためには、何よりも信徒の魂への配慮に関わる実践から生まれてきた神学的な文章を検討する必要がある。
敬虔派において魂の配慮を担当する司牧舎すらも秘密の懺悔に疑念を抱いていたことは敬虔派の信徒すべてでないとしても多くの信徒たちにが何度もこれについてシュぺーナーに質問していることからも明らかである
この「天職」という思想は私たちの資本主義的な文化を特徴づける要素の一つでもあったし、現在でもそうであり続けている。だから私たちが知りたいのは、この「天職」という概念に含まれているあの非合理的な要素は、いったいどこから誕生したのかという事である。
(予定説について)だから地上の「正義」という基準で、神の至高なる導きを測ろうとするのは無意味なことであり、神の至高性を損ねる事になるのである。
それでもベンジャミンフランクリンの実例で見たように、正当な利潤を組織的かつ合理的に、職業として追い求めようとする心構えをここで暫定的に「(近代)資本主義の精神」と名付けておきたい
ただし再洗礼派の道徳の固有の方法的な性格は心理的にみるならば、予定説が否定されたために聖霊の働きを「待ち望む」という思想から生まれるものであった。
市民の中間層が、それまで考えられなかったようなピューリタン的な圧制を、渋々とではなく、心から受け入れたのは、そしてこの圧制の擁護する為に英雄的な行動に走ったのはなぜだろうか
カルヴァン派の職業概念が緩和されたものであるが、他方では再洗礼派の様々な教団では多様な要因によって職業への経済的な関心が著しく強められることもあったのである。
封建的な王権制の社会は、新たに発生してきた市民的な道徳と権威に敵対する禁欲的なピューリタンの私的な集会に対抗するために享楽する意志のある者たちを保護しようとしたのだった。
カルヴァン派の陰気な労苦と違って晴れやかな確実性をもたらすものだったからである。そして真の回心者たちはこれによって、「罪がもはや彼を支配していない」ことを自らに、そして他者に示さなければならないとされた。
バクスターもまた、神が自分が他の場所ではなくイギリスにそして真の教会のうちに生まれさせたことに感謝しているのである。神の恩寵によって道徳的に非難すべきところがない者となることができたというこのような感謝はピューリタン市民の生活の雰囲気の全体に浸透していた。
ファウストが願ったような完全な人間性を享受することは放棄して専門の仕事に専念することは現代の世界において何らかの価値のあることを実現するための条件となっているのである。だから何か業績を上げるために何らかのことを放棄するのは、どうしても避けられないことなのだ。
唯物史観をつかって物質的な関係が観点的な上部構造に反映されたと語ることはまったく無意味なことだろう。ここで問うべきなのは外面的にみると純粋に利潤を追求する活動が「天職」とまでみなされ(略)義務と感じられるようになる思考の配置がどんな思考の世界から生まれたのかとうことである
もう一つの要因は再洗礼派を基礎とする全ての宗派に自然の貴族的な生活スタイルに対する厳しい敵意が残り続けていたことである。その原因の一つはカルヴァン派の場合と同じように被造物の栄光を高める事が禁じられたことにあるが同時に非政治的な原則、時には反政治的な原則のもたらした帰結であった
しかしある時期に急激に、こうした快適な生活が乱されるようになった。しかし集中的な経営方針への移行や機械を使った製造活動への移行のような組織形態への大きな変動なしに、こうした錯乱が生じることも多かった。
メソジスト派にとってこの感情は、自己証明は決定的な意味をもつものだったが、それにも関わらず律法を守ることを目指した行状を堅持しなければならないのは当然のことだった。
カルヴァン派の神が信徒たちに求めたのは、個々の「善き業」ではなく、「業を聖化すること」を体系にまで高める事だった。