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森於菟『魂魄分離』
明代末葉のころらしい。
江西省南昌府の城門外数里の地に北蘭寺という古刹があった。数名の若者がその寺内にいくつかの房を借り、進士となるのを目的として科挙に応ずる準備の読書をしていた。
その中で魏生と張生とは気の合う所があったので、互いに何事も打ち明け、年長の魏生は張生を弟のごとくいたわり、張生はまた魏生を兄のごとく敬って、その交情は僚友もうらやむほどであった。
秋の初めごろ魏生はそこから余り遠くない郷里にいる母が病にかかったという知らせを受け取って看護のために
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森於菟『魂魄分離』
明代末葉のころらしい。
江西省南昌府の城門外数里の地に北蘭寺という古刹があった。数名の若者がその寺内にいくつかの房を借り、進士となるのを目的として科挙に応ずる準備の読書をしていた。
その中で魏生と張生とは気の合う所があったので、互いに何事も打ち明け、年長の魏生は張生を弟のごとくいたわり、張生はまた魏生を兄のごとく敬って、その交情は僚友もうらやむほどであった。
秋の初めごろ魏生はそこから余り遠くない郷里にいる母が病にかかったという知らせを受け取って看護のために
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中谷宇吉郎『クロス・ワーズ・パズル』
夏期コースがすんで、やっと休みになったというのに、娘の一人が、机にしがみついて、何か一所懸命にやっている。「試驗がすんだから、勉強を始めているのかい」と冷やかしたら、「そうじゃないのよ。今三千ドル儲けている最中よ」という。見ると、新聞のクロス・ワーズ・パズルである。
アメリカの新聞には、よくこの手があって、簡單そうなクロス・ワーズ・パズルを出して、正解者には何千ドルという賞金を出すと書いてある。今の場合は、それが三千ドル、即ち百八萬圓の懸賞で
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中谷宇吉郎『クロス・ワーズ・パズル』
夏期コースがすんで、やっと休みになったというのに、娘の一人が、机にしがみついて、何か一所懸命にやっている。「試驗がすんだから、勉強を始めているのかい」と冷やかしたら、「そうじゃないのよ。今三千ドル儲けている最中よ」という。見ると、新聞のクロス・ワーズ・パズルである。
アメリカの新聞には、よくこの手があって、簡單そうなクロス・ワーズ・パズルを出して、正解者には何千ドルという賞金を出すと書いてある。今の場合は、それが三千ドル、即ち百八萬圓の懸賞で
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山本周五郎『好みの移り変り』
私は去年あたりから喰べ物の好みが変ってきた。牛鍋がだめ、かばやきがだめ、そのほか魚類でも砂糖と醤油で濃く煮たのはだめだし、海老などは伊勢海老からまきまで、てんでうけつけなくなった。およそ十年くらいまえまでは、三日と牛鍋を喰べないことはなかったし、翌日その残りの鍋底に舌鼓を打ったものであった。それがいまは考えるだけで胸がつかえてくる。
この夏さるところで外泊した翌朝、――こういう場合には例外なく若い友人たちと飲みつぶれたあとであり、その友人たちと
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山本周五郎『好みの移り変り』
私は去年あたりから喰べ物の好みが変ってきた。牛鍋がだめ、かばやきがだめ、そのほか魚類でも砂糖と醤油で濃く煮たのはだめだし、海老などは伊勢海老からまきまで、てんでうけつけなくなった。およそ十年くらいまえまでは、三日と牛鍋を喰べないことはなかったし、翌日その残りの鍋底に舌鼓を打ったものであった。それがいまは考えるだけで胸がつかえてくる。
この夏さるところで外泊した翌朝、――こういう場合には例外なく若い友人たちと飲みつぶれたあとであり、その友人たちと
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中谷宇吉郎『警察を凹ませた話』
明治の日本の小咄に、こんなのがある。
錢湯から出て來た男が、月を仰ぎながらいい氣持で立小便をしていた。そこをお巡さんに見つかって「おい、こら、何をしてるか」と咎められた。その男は慌てて「へい、手拭をしぼっていました」といった。そしたらそのお巡りさんが「なるべく家へ歸ってからしぼった方がいいな」といった、というのである。
それと反對の話もある。これは或る執念深い男の逸話として傳えられているのであるが、その男が若い頃、立小便をしているところを、巡査に
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中谷宇吉郎『警察を凹ませた話』
明治の日本の小咄に、こんなのがある。
錢湯から出て來た男が、月を仰ぎながらいい氣持で立小便をしていた。そこをお巡さんに見つかって「おい、こら、何をしてるか」と咎められた。その男は慌てて「へい、手拭をしぼっていました」といった。そしたらそのお巡りさんが「なるべく家へ歸ってからしぼった方がいいな」といった、というのである。
それと反對の話もある。これは或る執念深い男の逸話として傳えられているのであるが、その男が若い頃、立小便をしているところを、巡査に
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山本周五郎『御馬印拝借』
一
土田源七郎が来たという取次をきいて、三村勘兵衛はうんと頷きながら口をへの字なりにひき結んだ。なにやら思い惑うといいたげな顔つきである、「うん……」もういちど頷いて天床をふり仰いだ、それから明けてある妻戸の向うの庭を見やった。すると庭はずれにある蔬菜畑でむすめの信夫がなにやらたちはたらいている姿をみつけたので、これまた慌てて眼をそらした。かたわらにいた妻のお萱は、そのようすを訝しそうに見まもっていたが、「いかがあそばしました、お会いなさいませんのですか」
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山本周五郎『御馬印拝借』
一
土田源七郎が来たという取次をきいて、三村勘兵衛はうんと頷きながら口をへの字なりにひき結んだ。なにやら思い惑うといいたげな顔つきである、「うん……」もういちど頷いて天床をふり仰いだ、それから明けてある妻戸の向うの庭を見やった。すると庭はずれにある蔬菜畑でむすめの信夫がなにやらたちはたらいている姿をみつけたので、これまた慌てて眼をそらした。かたわらにいた妻のお萱は、そのようすを訝しそうに見まもっていたが、「いかがあそばしました、お会いなさいませんのですか」
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中谷宇吉郎『放射能の害』
今度のジュネーヴにおける原子力平和利用の會議で、放射能の遺傳に及ぼす障害が問題になった。
日本では放射能の雨や鮪の汚染が大問題になったが、アメリカはじめ諸外國では、今までそう問題にしていなかった。とくにアメリカでは、自國内のネヴァダ州で、何十回となく實驗をしていながら、平氣な顏をしていた。人體には害はないという自國の科學者の言葉を皆が信用していたからであろう。
しかし一つ問題が殘っていたので、それは現在は害はないが、將來遺傳の上で、惡影響があるかも
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中谷宇吉郎『放射能の害』
今度のジュネーヴにおける原子力平和利用の會議で、放射能の遺傳に及ぼす障害が問題になった。
日本では放射能の雨や鮪の汚染が大問題になったが、アメリカはじめ諸外國では、今までそう問題にしていなかった。とくにアメリカでは、自國内のネヴァダ州で、何十回となく實驗をしていながら、平氣な顏をしていた。人體には害はないという自國の科學者の言葉を皆が信用していたからであろう。
しかし一つ問題が殘っていたので、それは現在は害はないが、將來遺傳の上で、惡影響があるかも
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山本周五郎『某月某日〔仕事に明け仕事に昏れる〕』
仕事に明け仕事に昏れるという生活で、あまり人とも会わず、会うのは殆んどが仕事に関する人だけで、家族とも離れているから、特に「某月某日」というような変ったことはない。まるで刑務所へ入っているようなもので、昼めしを食べに外出するほかは、新聞も見ずラジオも聞かず、読むか書くかするほかにはなにごとも起こらないのである。どうにもしょうがない、過去のことなら話題は少ないほうではないが、いま過去のことなどを言ってみたところで面白くもない。
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山本周五郎『某月某日〔仕事に明け仕事に昏れる〕』
仕事に明け仕事に昏れるという生活で、あまり人とも会わず、会うのは殆んどが仕事に関する人だけで、家族とも離れているから、特に「某月某日」というような変ったことはない。まるで刑務所へ入っているようなもので、昼めしを食べに外出するほかは、新聞も見ずラジオも聞かず、読むか書くかするほかにはなにごとも起こらないのである。どうにもしょうがない、過去のことなら話題は少ないほうではないが、いま過去のことなどを言ってみたところで面白くもない。
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中谷宇吉郎『「楽天地」南米』
この頃日本では、南米熱が大分流行していて、一部には、南米というと、何か樂天地のように、ぼんやり考えている人もあるらしい。先頃作られた映畫にも、南米へ移住しようという精神病の男を主役にしたものがあった。これなども、精神病だから南米へ行きたがっているわけではなく、「樂天地」南米という考え方が、底に流れているようである。
南米への移住農民の場合は、話が少しちがう。日本ではどうしても土地が得られないので、南米へ行って、新しい土地を開拓しようという人たちは、
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中谷宇吉郎『「楽天地」南米』
この頃日本では、南米熱が大分流行していて、一部には、南米というと、何か樂天地のように、ぼんやり考えている人もあるらしい。先頃作られた映畫にも、南米へ移住しようという精神病の男を主役にしたものがあった。これなども、精神病だから南米へ行きたがっているわけではなく、「樂天地」南米という考え方が、底に流れているようである。
南米への移住農民の場合は、話が少しちがう。日本ではどうしても土地が得られないので、南米へ行って、新しい土地を開拓しようという人たちは、
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山本周五郎『ゆだん大敵』
一
老田久之助が殿の御秘蔵人だということは、長岡藩で知らぬ者はなかった。
本当の姓は郷田というのだが、それを老田と呼ぶところにもそのあらわれがある、つまり藩主の牧野忠辰は幼名を老之助といった、その幼名の一字を与えて、「そのほう一代に限り老田となのれ」という下命があって、それ以来そう呼ぶようになったのである。
……忠辰は飛騨守忠成の子で、七歳のとき母に亡くなられ、また間もなく父にも死別したので、十歳という幼い身で家を継いだ。大叔父に当る牧野忠清が後見と
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山本周五郎『ゆだん大敵』
一
老田久之助が殿の御秘蔵人だということは、長岡藩で知らぬ者はなかった。
本当の姓は郷田というのだが、それを老田と呼ぶところにもそのあらわれがある、つまり藩主の牧野忠辰は幼名を老之助といった、その幼名の一字を与えて、「そのほう一代に限り老田となのれ」という下命があって、それ以来そう呼ぶようになったのである。
……忠辰は飛騨守忠成の子で、七歳のとき母に亡くなられ、また間もなく父にも死別したので、十歳という幼い身で家を継いだ。大叔父に当る牧野忠清が後見と
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中谷宇吉郎『社交税』
シカゴの街は、ミシガン湖に沿って、南北にずっとのびている。このミシガン湖にすぐ沿ったところが、シカゴの銀座通りであって、豪華なホテルや、高級品を賣る有名な店が、たくさん竝んでいる。シカゴには、もちろん高島屋や三越に相當するデパートも、立派なものがいくつかあるが、それ等は、この湖岸通りから一段内側の大通りにある。そういうデパートなら、われわれ日本人も、たまにははいることも出來るが、海岸通りの店へは、決して足踏みしてはならない。其處はとんでもないところなのである。
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中谷宇吉郎『社交税』
シカゴの街は、ミシガン湖に沿って、南北にずっとのびている。このミシガン湖にすぐ沿ったところが、シカゴの銀座通りであって、豪華なホテルや、高級品を賣る有名な店が、たくさん竝んでいる。シカゴには、もちろん高島屋や三越に相當するデパートも、立派なものがいくつかあるが、それ等は、この湖岸通りから一段内側の大通りにある。そういうデパートなら、われわれ日本人も、たまにははいることも出來るが、海岸通りの店へは、決して足踏みしてはならない。其處はとんでもないところなのである。
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山本周五郎『米と貧しさ』
仕事に必要なため、この四月中旬に十日あまり北国地方をまわって来た。そのとき、越前、加賀、越中、越後の至るところで、気の遠くなるほど広大な平野がみな稲田であり、すなわち米を作っている、ということを見て心から驚いた。
私はいま関東平野の一ぐうに住んでいて、どっちへいっても耕地の大部分が稲田であることを知っている。また、北海道から九州まで、日本国土の八割方まで旅行した経験もあるから、わが国の農地で米作の占める面積がいかに大きいか、ということもほぼ知っていたので
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山本周五郎『米と貧しさ』
仕事に必要なため、この四月中旬に十日あまり北国地方をまわって来た。そのとき、越前、加賀、越中、越後の至るところで、気の遠くなるほど広大な平野がみな稲田であり、すなわち米を作っている、ということを見て心から驚いた。
私はいま関東平野の一ぐうに住んでいて、どっちへいっても耕地の大部分が稲田であることを知っている。また、北海道から九州まで、日本国土の八割方まで旅行した経験もあるから、わが国の農地で米作の占める面積がいかに大きいか、ということもほぼ知っていたので
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中谷宇吉郎『二億円の犬』
何時かのシカゴの新聞に、珍しい損害賠償の訴訟事件が載っていた。犬が死んだのに對する賠償金の要求で、それだけならば、何も變った話ではないが、その金額が六十萬弗(二億二千萬圓)というところが珍しいのである。
これは冗談の話ではない。アイルランド系のミッチェルという男が、ユニオン・パシフィック会社とシカゴ鐵道會社とを相手にして、正式に法廷へ持ち出した事件なのである。
犬はよく訓練されたフォックス・テリアで「歐洲の驚異の犬」といわれたものだそうである。
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中谷宇吉郎『二億円の犬』
何時かのシカゴの新聞に、珍しい損害賠償の訴訟事件が載っていた。犬が死んだのに對する賠償金の要求で、それだけならば、何も變った話ではないが、その金額が六十萬弗(二億二千萬圓)というところが珍しいのである。
これは冗談の話ではない。アイルランド系のミッチェルという男が、ユニオン・パシフィック会社とシカゴ鐵道會社とを相手にして、正式に法廷へ持ち出した事件なのである。
犬はよく訓練されたフォックス・テリアで「歐洲の驚異の犬」といわれたものだそうである。
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山本周五郎『楯輿』
一
神原与八郎は豪快な生きかたを好んだ。からだはどっちかというと小がらなほうだが、肩腰の頑丈な逞しい骨ぐみだし、眉のあがった双眸の光りのするどい、いつも片方へひき歪めている唇つきなど、負けぬ気のつよさと軒昂たる意気をよくあらわしていた。起ち居ふるまいも言葉つきも颯爽として、大事に惑わず小事に拘泥せずという態度を常に崩さない、かくべつ大言壮語するわけではないが、なかなか辛辣な舌をもっていて、年功の者などをも屡々極めつけるようなことがあった。かれはくち癖のように
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山本周五郎『楯輿』
一
神原与八郎は豪快な生きかたを好んだ。からだはどっちかというと小がらなほうだが、肩腰の頑丈な逞しい骨ぐみだし、眉のあがった双眸の光りのするどい、いつも片方へひき歪めている唇つきなど、負けぬ気のつよさと軒昂たる意気をよくあらわしていた。起ち居ふるまいも言葉つきも颯爽として、大事に惑わず小事に拘泥せずという態度を常に崩さない、かくべつ大言壮語するわけではないが、なかなか辛辣な舌をもっていて、年功の者などをも屡々極めつけるようなことがあった。かれはくち癖のように
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たまたまアンリミで見かけたので数十年ぶりの吉行淳之介。この作品自体は初めてで、昭和臭全開のザ・大衆小説だった。もぐりのタクシー運転手の女体遍歴という超下世話なはなしだけど、けっこう楽しめたかも。まぁおすすめはしないけどw
amzn.to/4qZGYuu
たまたまアンリミで見かけたので数十年ぶりの吉行淳之介。この作品自体は初めてで、昭和臭全開のザ・大衆小説だった。もぐりのタクシー運転手の女体遍歴という超下世話なはなしだけど、けっこう楽しめたかも。まぁおすすめはしないけどw
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中谷宇吉郎『稲の二毛作』
大阪からの飛行機は、室戸岬の上を通って、高知まで、一時間十分で飛ぶ。天氣がよいと、陸地の上を短絡して、五十分くらいでいってしまうこともある。まことに隔世の感がある。
室戸岬の上を、飛行機でとんで、一番驚いたことは、あの急峻な岬の山地が、ほとんど頂上まで、段状の耕地になっている點であった。乏しい土地を、最後の一隅まで、使おうとする日本人の努力の姿が、まざまざと見られる。
耕地の一部は緑で、他は黄色である。同乘の土佐の人らしい紳士が、あの實っているのは稻です
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中谷宇吉郎『稲の二毛作』
大阪からの飛行機は、室戸岬の上を通って、高知まで、一時間十分で飛ぶ。天氣がよいと、陸地の上を短絡して、五十分くらいでいってしまうこともある。まことに隔世の感がある。
室戸岬の上を、飛行機でとんで、一番驚いたことは、あの急峻な岬の山地が、ほとんど頂上まで、段状の耕地になっている點であった。乏しい土地を、最後の一隅まで、使おうとする日本人の努力の姿が、まざまざと見られる。
耕地の一部は緑で、他は黄色である。同乘の土佐の人らしい紳士が、あの實っているのは稻です
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山本周五郎『蜜柑』
一
「大夫がお呼びなさる?」
源四郎はいぶかしげに問いかえした。
「大高のまちがいではありませんか、たしかに拙者をお呼びなさるのですか」
「いやまちがいではない」
使者はもどかしそうに、
「貴公を呼んでまいれと申しつかって来たのです。ゆだんのならぬご病状だからすぐに支度をしておいで下さい」
「相わかりました、すぐ参上いたします」
源四郎はとびたつように居間へはいった。
――大夫がじぶんを呼ぶ。
そう思うと胸がいっぱいになった。
紀州徳川家の家老、
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山本周五郎『蜜柑』
一
「大夫がお呼びなさる?」
源四郎はいぶかしげに問いかえした。
「大高のまちがいではありませんか、たしかに拙者をお呼びなさるのですか」
「いやまちがいではない」
使者はもどかしそうに、
「貴公を呼んでまいれと申しつかって来たのです。ゆだんのならぬご病状だからすぐに支度をしておいで下さい」
「相わかりました、すぐ参上いたします」
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――大夫がじぶんを呼ぶ。
そう思うと胸がいっぱいになった。
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連作短編集のように小ぶりな謎解きが続くが、全体としては叙述ミステリーになっているという、ちょっと風変わりな作品。ただそのために、キャラクターの描写に物足りなさや違和感も感じた。好みの設定だし人気シリーズのようなので、アンリミのうちに次も読んでみるかな。
amzn.to/4oL5r4v
連作短編集のように小ぶりな謎解きが続くが、全体としては叙述ミステリーになっているという、ちょっと風変わりな作品。ただそのために、キャラクターの描写に物足りなさや違和感も感じた。好みの設定だし人気シリーズのようなので、アンリミのうちに次も読んでみるかな。
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山本周五郎『堀口さんとメドック』
昭和二十年の五月だと思うが、ある人を介して堀口九萬一さんからお招きをうけた。私の愚にもつかないものを読んでおられて、そこで会いたいといわれるのである。酒が不自由だろうから来れば飲ませてやる、という付帯条件もあった。お断わりをすると(中に立った人の口車かもしれないが)しからばこっちからゆくといわれるそうで、それでは恐縮でもあり敬老精神にも反するので、防空服装でもって恐る恐る、小石川の高台にあるお邸へ参上した。翁はたしかもう九十歳にちかいお年だったと
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山本周五郎『堀口さんとメドック』
昭和二十年の五月だと思うが、ある人を介して堀口九萬一さんからお招きをうけた。私の愚にもつかないものを読んでおられて、そこで会いたいといわれるのである。酒が不自由だろうから来れば飲ませてやる、という付帯条件もあった。お断わりをすると(中に立った人の口車かもしれないが)しからばこっちからゆくといわれるそうで、それでは恐縮でもあり敬老精神にも反するので、防空服装でもって恐る恐る、小石川の高台にあるお邸へ参上した。翁はたしかもう九十歳にちかいお年だったと
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正宗白鳥『未見の人』
或る日私は急な相談事があつて、友人末永を訪ねた。例の通り案内をも乞はず、庭木戸から聲を掛けて座敷の障子を開けると、彼れの細君や母や妹やが一所になつて、腹を抱へて笑つてゐる。私は相變らず氣樂な家庭だと、少し呆れ氣味で、
「どうしたんだい。」と、座敷に突立つたまゝ、皆んなを見廻した。すると末永は一人笑ひを止め、
「何でもないんさ、今武部といふ男が來てね、變な眞似をして行つたもんだから。」
「武部?……聞いたことのあるやうな名だが。」と、私は首を傾げて考へて、
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正宗白鳥『未見の人』
或る日私は急な相談事があつて、友人末永を訪ねた。例の通り案内をも乞はず、庭木戸から聲を掛けて座敷の障子を開けると、彼れの細君や母や妹やが一所になつて、腹を抱へて笑つてゐる。私は相變らず氣樂な家庭だと、少し呆れ氣味で、
「どうしたんだい。」と、座敷に突立つたまゝ、皆んなを見廻した。すると末永は一人笑ひを止め、
「何でもないんさ、今武部といふ男が來てね、變な眞似をして行つたもんだから。」
「武部?……聞いたことのあるやうな名だが。」と、私は首を傾げて考へて、
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中野鈴子『夜』
足を伸ばす
体の横に手を垂れて
目を閉じる
ねむろうとして自分の呼吸を聞いている
かならず闇がおそいかかる夜というもの
夜
夜はかならずきて
わたしはかならずねむったにちがいなかった
夜が来ればねむったであろう
そして夜
ねむれぬままにも
ねむったであろう
五十年の美しい昼と夜
一個の生きとし生きる者として
春の花
冬の雪にも
お前はいたのか
お前はいたのか
お前は赤ん坊でもあったのか
あのようにも美しい
桃のようでもあったのか
いまねむろうとして
夜の闇が
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中野鈴子『夜』
足を伸ばす
体の横に手を垂れて
目を閉じる
ねむろうとして自分の呼吸を聞いている
かならず闇がおそいかかる夜というもの
夜
夜はかならずきて
わたしはかならずねむったにちがいなかった
夜が来ればねむったであろう
そして夜
ねむれぬままにも
ねむったであろう
五十年の美しい昼と夜
一個の生きとし生きる者として
春の花
冬の雪にも
お前はいたのか
お前はいたのか
お前は赤ん坊でもあったのか
あのようにも美しい
桃のようでもあったのか
いまねむろうとして
夜の闇が
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2021年東京オリンピックで使われたコンピューターが自分はブッダだと宣言し、機械仏教が広まっていく過程と結末をユーモアたっぷり描いたSFコメディ小説で、生成AIや量子力学まわりの大騒ぎも皮肉たっぷりに語られる。コンピューター用語が小ネタ的に多用されるので、人を選ぶかもしれない。全体を見ればメタ小説のようにも読み取れる。非常に面白かった。
amzn.to/3JiInex
2021年東京オリンピックで使われたコンピューターが自分はブッダだと宣言し、機械仏教が広まっていく過程と結末をユーモアたっぷり描いたSFコメディ小説で、生成AIや量子力学まわりの大騒ぎも皮肉たっぷりに語られる。コンピューター用語が小ネタ的に多用されるので、人を選ぶかもしれない。全体を見ればメタ小説のようにも読み取れる。非常に面白かった。
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中谷宇吉郎『クラム・ベーク』
米國の東海岸、ニュー・イングランド地方には、流石に古い傳統が殘っていて、ジャズの國アメリカでは一寸考えられないような料理がある。「クラム・ベーク」というのが、その一つであって、今度の會議の懇親會で、初めて食べてみたが、なかなか風趣のある料理である。これは東部でも、海岸地方にだけ殘っているもので、日本でも珍しい料理の一つであろう。
料理は野外でやるので、廣々とした草地の中に、まず大きい石塊を並べて、四角形の場所を作る。その中は六尺に九尺くらいあって、
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中谷宇吉郎『クラム・ベーク』
米國の東海岸、ニュー・イングランド地方には、流石に古い傳統が殘っていて、ジャズの國アメリカでは一寸考えられないような料理がある。「クラム・ベーク」というのが、その一つであって、今度の會議の懇親會で、初めて食べてみたが、なかなか風趣のある料理である。これは東部でも、海岸地方にだけ殘っているもので、日本でも珍しい料理の一つであろう。
料理は野外でやるので、廣々とした草地の中に、まず大きい石塊を並べて、四角形の場所を作る。その中は六尺に九尺くらいあって、
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山本周五郎『酒屋の夜逃げ』
こういう題をみると、人びと――少なくとも酒呑みに属する人びとは膝を乗り出すだろうと思う。
嘘ではない。こちらが勘定を溜めたあげく、面目なさに逃げたのではなく勘定を溜められた側の、すなわち債権者であるところの酒屋のほうで夜逃げをしたのである。
もちろん、約二十年まえ、大森の馬込にいた頃のことで、その酒屋は「三河屋」といい、聞くところによると、当時その付近に住んでいた作家や画家諸氏がずっとひいきにしていたようであった。
その三河屋のまえ、私が馬込で初めて
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山本周五郎『酒屋の夜逃げ』
こういう題をみると、人びと――少なくとも酒呑みに属する人びとは膝を乗り出すだろうと思う。
嘘ではない。こちらが勘定を溜めたあげく、面目なさに逃げたのではなく勘定を溜められた側の、すなわち債権者であるところの酒屋のほうで夜逃げをしたのである。
もちろん、約二十年まえ、大森の馬込にいた頃のことで、その酒屋は「三河屋」といい、聞くところによると、当時その付近に住んでいた作家や画家諸氏がずっとひいきにしていたようであった。
その三河屋のまえ、私が馬込で初めて
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