sasaki.kouji(佐々木広治)
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sasaki.kouji(佐々木広治)
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岩手県盛岡市在住のただのおじさんです。 いろいろ教えて学べたら幸い。 よろしくお願いします。 1975年8月1日生まれ。 A型。 カクヨムで書いております。よろしければ。 https://kakuyomu.jp/works/16817330654148299357 ご奇特な方がいらしたら、お恵みいただけますと幸い。 https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/3HE9DETGUVIGK?ref_=wl_share よろしくお願いします。
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主義というより趣味というべきか。過去ばかり振り返り讚美し、いまを嘆くのみ。その懐古とて、自身が裕福で高等遊民でいられたからであろうし、故に胆力もなかろうし。通人だの粋だの風流だのと自他共に認められていたもののようだが、私はまったくそうは思わぬし感じぬし、もう少しは健康さが必要だったろうと思われる。さすがに見るべきところはあるが。
#読了 永井荷風著『葛飾土産』。夷斎先生が『敗荷落日』において「おもへば、葛飾土産までの荷風散人であった。」と記してあるのが記憶にあり、いつか読もうと思っていた。言うならば日記、随想だろう。昭和二十二年における。「梅花を見て興を催すには漢文と和歌俳句との素養が必要になつて来る。されば現代の人が過去の東洋文學を顧りみぬやうになるに従つて梅花の閑却されるのは当然の事であらう。」ここにこの文の、というのか晩年の荷風の姿勢が如実に表れているのではないかと私は思う。懐古主義、いや、
ることの方が少ない。「古への歌人はあなどり難し。なか/\に今の人などより森羅万象に心をつくることまめやかにて、我等が思ひも寄らぬあたりのものをも歌の材として用ゐ居るなり。」と記しておるが、露伴に私はそれを感想する。
#読了 幸田露伴著『雲のいろ/\』。ちょっと呆気にとられてしまうが、文字通り雲にまつわることのみが描かれている。国木田独歩のものでも、そのあまりな直截ぶり、見ようによっては曲のないさまに呆然とさせられたものだが。故に免疫というのか慣れはあったものの。されど、露伴の精進による博識ぶり、雲の見方の多彩さを教えられて有意義ではあり。坂東太郎だとか丹波太郎なぞ知らなかったわけで。「丹波太郎は西鶴の文に出でたりと覚えたり、坂東太郎は未だ古人の文に其風情をしるされざるにや」。翻雲覆雨なぞも。みづまさ雲等、むしろ知ってい
多面的だ。自己認識が深まるにつれ、あらゆる感情は指数関数的に複雑化する。このさき創作活動をも試みるとするなら、それらを完全に記述できるようにしておかなくてはいけない。 もちろん、現実に経験する感情の数は、経験が可能な感情よりずっと少ない。」『ヨハネによる福音書』の冒頭にある「はじめに言葉(ロゴス)ありき」、ということなのだろう。つまり、ロゴス小説集、とも言えるのではないか。
基督教の影響を受けないものはまずなかろうが、それを差し引いても強く現れているような気のされる。その文脈で読んでゆけることだろうが、言語というものが本著の主要なモティーフとなっている。「人類は逐次的認識様式を発達させ、一方ヘプタポッドは同時的認識様式を発達させた。われわれは事象をある順序で経験し、因果関係としてそれを知覚する。それらはあらゆる事象を同時に経験し、その根源にひそむ目的を知覚する。最小化、最大化という目的を。」「論理的な帰結として、この研究の目的は人間という種の真辞を見つけ出すということになります。人間を命名学の力で繁殖させようというわけですね」「いまのわたしの心情はもっと
#読了 テッド・チャン著『あなたの人生の物語』。ひとつの文明の奥の奥まで分け入り分け入りしてゆき、原初にあるものを見極めようとする行為。本著を読み通して私の受けとったものは、そう言い得ようか。著者で言えば米国であり、米国からさらに遥か遡り旧約聖書の世界へと。それは何も時代だとかその国の風土、風俗というばかりの謂いではなくて。旧約聖書の世界、というのは一例であり象徴的な意味合いであるが、聖書だとか聖書の影響を強く感じさせられたのは事実で。言うまでもなく前述した通りモティーフで散見される、ということだけではないが。逆に外国文學で
そうした時期もあろうけれど、静かに快活にふりかえることがかなうということ。語りの内容もさることながら、その姿勢に胸うたれたのかもしれない。叙述のさまも巧み。幸田露伴のもので私が一等好むものになりそうだ。
#読了 幸田露伴著『太郎坊』。よもや露伴に泣かされるとは思わなんだ。働き者の、壮年を越え初老あたりだろうか、壮健で仲睦まじい夫婦が一組。子はどうやらいないらしい。夏の日、ひと仕事終えた夕餉。有触れた鯵の塩焼、本菜となる鴫焼(ここの辺りも面白い)をあてに晩酌をし。ご機嫌ななか、手を滑らせて永楽の猪口を破損させてしまう。その猪口にまつわる話を主ははじめる。…主というものの人としての有り様が素晴らしい、というのか、潔いだとか晴朗で快い。失われた物に託し、失われたもの、ことを語る、その語り口。恨むでなく、僻むでなく、嘆くでなく、もとより
積極的には好まないということもあるのだろう。月へとゆき調査したりするアウトドアなものだとイメージしていたが、実際は学者間の議論が大半を占めるインドア。推理小説、探偵小説より出歩かない。スケールの大きいものを扱いながら、登場人物らは狭い領域で終始する、その図は考えてみればおもしろい。おもしろいが、図式的すぎるか、とおもわなくもない。名作だとか古典だとか言われることに異を立てるつもりはさらさらなく、ただ私には合わない、好みではない、他人に勧められるものではなかった。
#読了 ジェイムズ・P・ホーガン著『星を継ぐもの』。SFの名作、古典なのだそうだから説明不要かもしれない。月面で発見された宇宙服を着用した死体は、五万年前に死亡した者だった。はたして何者であるのか。その謎を追及する物語。絶讚する言説をよく目にしていたため手にとったわけだが。私はことさら感銘をうける部分はなかった。何十年も前に卓越した科学的知識と奔放な想像力で、宇宙を舞台にした本格的推理小説の骨法をもった作品を作り上げたこと。そのは素直にすごいと関心させられはしたし、当時であればかなり画期的なことで衝撃をあたえたことは理解できるが。私がSFに苦手意識がありあまり読まずにきて、
こういうものを書ける状態であってほしかった、とも言いえる。そうなると、信仰に近い人気は得られなかったのやもしれぬが、そんなものはとるに足らぬもの。真っ当であって欲しかった、本人もそうありたかい思いがあったろう、と快い読後感のなかでしみじみ感じる。
作(小説)。私小説、とも言い得るだろうか。紀行を素材に、虚もいれて織り上げしもの。内容としては、相変わらずの、お決まりの、親なるものへの愛憎だとか、自己弁解(自己愛)ではあるのだが。それが明るく、健気にあらわれてあるのだ。明るく、健気にあろうと願う、祈る姿勢のもとに作りなされたもの。祈り、願望をもとに創作されてあるわけで、これは紀行文だ、だとか、すべて事実だ、と捉えてしまうと取り零しが少なくなくあることだろう。こういうものを、もっと書いていただきたかった、と思う。言い方をかえれば、
#読了 太宰治著『津軽』。率直に言って、私は太宰治が嫌いだ。津島修治が、とも言える。いや、さりとて嫌うほど津島修治は知らぬし、当然見知らぬ関わりのない者。太宰治は文物でしか知らぬ。それらから見えてくる人物像が厭わしいというのが正確なところだろう。されど誰しもが好ましいところ、好ましくないところがあるもの。そしてそれは受け手の価値観、倫理観、人生観で変わってゆくもの。そしてまた、それは私というひとりの人も免れないもの。私個人の好悪に話をもどす。繰りかえすと、誰しも好ましいところはある、とも言える。好ましくもなれる、とも。私にとって、本著はそれにあてはまる。本著は、紀行文、という体裁をとった創
「行きて帰りし物語」。それを成長譚だとするなら、ユキははたして成長したのだろうかと少しく疑わしいわけだが。本著自体ひと昔まえの話であり、その当時でもレトロなものがあり、著者独特の和洋折衷で奔放な想像力がみなぎり、はじけ、ゆすぶられ、掻き回され、引きずりまわされ、何時の間にか、ユキとともに鬱々とした気分が晴れ晴れとかるくなっていることに気づかされる。すこしだけ寂しく、とても楽しかったために。さりながら、ユキがまた再来できるように、私もまた頁をひらけば彼らと再会できる、確かに。
#読了 柏葉幸子先生著『りんご畑の特別列車』。小学5年生のユキ。いつものようにピアノ教室から帰宅するために列車に乗りこみ鬱々とする中、車中の皆がりんごをとり出し食しようとはじめ。本車両は特別列車でありユキは切符をもっていないからと途中下車させられる。車中で知り合いから旅行会社を訪ねよと地図を渡され行ったところから魔法の世界へとはいり。初めから破天荒で、ちょっと首を傾げさせられるところがあるが、それすら魅力にしてしまう語り口。そぞろに宮崎駿監督作品のあれこれを想起させられる箇所のあり、監督は影響をうけているのでは、と思ったり。内容としてはシンプルで、典型的な
ない日常をすこし長めに。原作小説は読んでいないし、読むつもりもないのだが、それを描くとなるとおそらく漫画オリジナルになるのだろう。オリジナルを出してかまわないのでは、と思う。すこしは先生に自由に描かせてあげてはどうか、と思うものだが。
今までのおさらいということだろう。兄である王子との関わりも描かれる。正直、ばっさり割愛してしまった方がよいのでは、と思った。完全に省かないまでも、思い切ってまったくべつの人物に視点をもたせるとか。こう述べると彼が嫌いなのか、作品を貶すのかと勘違いされそうだが、そういうつもりはないので悪しからず。ではどういうものがよいのだ!、ケチばかりつけて代案を出さないなんて無責任なことをするわけではないだろうな!と血気盛んな方は思われるかもしれない。代案になるかどうかわからないが、この世界の風景、風俗を、あまり物語にからめずに見たい。見せてもらえるとうれしい。何気
#読了 采和輝先生『異世界の沙汰は社畜次第』7。教会篇の決着。横領、陰謀が白日の元に曝される。我が儘で無知な小娘であった白石の成長、成長に伴うものといえるかユーリとの関係にも変化が見られる。多少イライラさせられる存在であったが、高校生くらいの齢で突然住む世界、家族や友人からひとり離され異世界にきたわけだから致し方なしか、と思えた。素地としては素直で優しく、頭がわるいわけでもなく。私塾が始動し、セイイチロウの部下ノルベルト=バラーネクが講師のひとりとなる。そして彼のエピソードとなる。セイイチロウの異世界人の監視役を王(父)から受けていたという。要するに
よろしくない。食品トレイ(容器プラスチック)はリサイクル不可。二十年以上前のものではあるが、はたして古びた内容だろうか。常識となり、改善されているのだろうか。残念ながら然らず、というのが現状であり、私自身知らぬことばかりであった。そして著者が言いたいことは、まえがきにもあるが、生き方、生きる姿勢についてなのだろうと思った。
同じ。エアコン28℃設定で温暖化防止にはならない。エアコンの温度設定を控えても電気代が下がるだけ。温暖化で海水面は上がらない。ダイオキシンで健康障害が起こる可能性は99%ない。被害報告も0。狂牛病にかかった牛の肉を食べて、狂牛病にかかった人はいない。生ゴミの堆肥が畑の栄養になる、というのは大間違い。古紙のリサイクルは、すればするほど森林が荒廃する。牛乳パックのリサイクルは無意味。ペットボトルのリサイクルは
#読了 武田邦彦先生著『偽善エコロジー 「環境生活」が地球を破壊する』。「これまで続けてきた「ウソの環境生活」をこの辺でやめよう、これからは後ろめたさのない生活、表面上は離境にいいといっているが、実は自分が得すればいいのだという「環境」から、本当に日本の将来のため、子孫のためになる「環境」に切り替える時期ではないか」。まえがきにあるこの箇所が、本著の肝となっている。レジ袋を使わないことで、逆に石油の消費量が増える。割り箸を使わずマイ箸を使うことで、無意味な紙のリサイクルが森林破壊につながる。温暖化はCO2削減努力で防げない。「ストップ温暖化」とは「ストップ台風」というのと
知っていたらその方面に傾倒し、生存していたかもしれないと思ったりする。著者は他人ごとでなく、自ら遭難したこと等省み重ね合わせつつ描いてゆく。非常に誠実な書き方、と思う。本著は、人間のとおる過程のひとつ、普遍的なものを描いたのだと、著者の示唆のとおり私も受けとる。普遍的な過程、人生の一時期。それを青春という。本著は、青春のある種、本質を描いたもの、と言えるのだろう。
いっていった若人の遺体が発見される。その若人の死にいたる軌跡を辿るノンフィクション。色々思わされ、刺激せられる。若人に寄せる非難は多かったとのこと。国は違えどそれは日本にもあり異国で亡くなった方々、亡くなりそうな方々を誹謗する言説をよく見かける。例えば栗城史多が顕著なのではないか。生存中から中傷が多く死に際しても貶され。彼を出汁に儲けていたものは、彼の死さえ出汁にして書籍にしていさえする。またお遍路さんだとか千日回峰行等荒行を連想させられもした。根となるものは同じだろうし、もし仮にお遍路さんだとか千日回峰行等荒行等仏教的修行──座禅でもよいかもしれぬ──、
#読了 ジョン・クラカワー著『荒野へ』。「危険な行動に出るのは、ほかの多くの行動と同様、私たちの文化における通過儀式である。危険はつねに確かな魅力をもっている。こんなに多くのティーンエージャーたちが車を暴走させたり、大酒を飲んだり、ドラッグにふけったりする理由も、大部分はそれであり、だから、国家が新兵を募って、若者たちを戦場へ送るのも、いつだって簡単なのである。若者の勇敢な行動は事実、進化論的にも適合しているし、遺伝子にも組みこまれていることは立証できる。マッカンドレスはマッカンドレスなりに、ただ限界と思われるところまで危険を冒そうとしたにすぎない。」一九九二年九月、アラスカの荒野に単身分け