すし天ズ i.e. Jun Miura
@philoglasses2.bsky.social
東京大学で哲学を研究したり散歩したり、他の大学で教えたり。専門は17–18世紀の形而上学と生命思想史。ライプニッツをよく読みます。リプライやDMの通知は基本オフになっているので、重要なことはメールでご連絡ください。今までの仕事や連絡先はこちらから→ http://researchmap.jp/junki1129/
【博論進捗】第7章「認識論的な真理:経験は形而上学を改訂するための真理となりうるか」を書いた。しばしばライプニッツは知性主義的に解釈され、必然的真理だけでなく事実真理に関しても、自同的命題への還元が真理性の基礎として据えられていると考えられているが、じっさいのところ、事実に固有の真理性の基礎が経験に内在的な仕方でも与えられていること明らかにする章。第2部で論じてきた、経験の要求に基づいて形而上学的諸概念が整備されたということが、ライプニッツ哲学において正当な道だったのかどうかは、 →
July 12, 2025 at 1:32 PM
【博論進捗】第7章「認識論的な真理:経験は形而上学を改訂するための真理となりうるか」を書いた。しばしばライプニッツは知性主義的に解釈され、必然的真理だけでなく事実真理に関しても、自同的命題への還元が真理性の基礎として据えられていると考えられているが、じっさいのところ、事実に固有の真理性の基礎が経験に内在的な仕方でも与えられていること明らかにする章。第2部で論じてきた、経験の要求に基づいて形而上学的諸概念が整備されたということが、ライプニッツ哲学において正当な道だったのかどうかは、 →
ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、III, 1, 5–6を読んだ。合生の在り方を制約しているカテゴリーとして、主体的統一カテゴリーに加えて、対象的同一性と多様性のカテゴリーが導入されるのが、第5節の後半部分。統一カテゴリーが、なぜ諸事物は両立しているのか、ということを説明するカテゴリーだとすれば、逆に同一性と多様性のカテゴリーは、なぜ他のものが両立しえないのかを説明することを可能にするカテゴリーであるように見える。第6節では、媒介について論じられ始めていて、ある現実的存在が、 →
July 7, 2025 at 4:38 AM
ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、III, 1, 5–6を読んだ。合生の在り方を制約しているカテゴリーとして、主体的統一カテゴリーに加えて、対象的同一性と多様性のカテゴリーが導入されるのが、第5節の後半部分。統一カテゴリーが、なぜ諸事物は両立しているのか、ということを説明するカテゴリーだとすれば、逆に同一性と多様性のカテゴリーは、なぜ他のものが両立しえないのかを説明することを可能にするカテゴリーであるように見える。第6節では、媒介について論じられ始めていて、ある現実的存在が、 →
【博論進捗】6.1「実体的紐帯の導入と転換:関係説から実体説へ」を書いた。晩年のライプニッツが持ち出すことになる実体的紐帯という概念について、1713年8月23日付のデ・ボス宛書簡でライプニッツ自身がそれまでの自身の紐帯概念に明示的な仕方で変更を加えている点に注目する。このとき紐帯概念は、それまでの予定調和説の延長上にあった関係説的なものから、予定調和の枠組みでは説明することのできない別種の働きをもつそれ自体で絶対的で実体的であるような紐帯概念へと変更される。 →
July 4, 2025 at 1:07 AM
【博論進捗】6.1「実体的紐帯の導入と転換:関係説から実体説へ」を書いた。晩年のライプニッツが持ち出すことになる実体的紐帯という概念について、1713年8月23日付のデ・ボス宛書簡でライプニッツ自身がそれまでの自身の紐帯概念に明示的な仕方で変更を加えている点に注目する。このとき紐帯概念は、それまでの予定調和説の延長上にあった関係説的なものから、予定調和の枠組みでは説明することのできない別種の働きをもつそれ自体で絶対的で実体的であるような紐帯概念へと変更される。 →
「著者が筆をとるに先立って、ついで原稿を印刷にまわすに先立って、真摯な懸念をいだきつつ「わたしは真理のうちにあるのか」と自問した印象を与える書物や論文がどれだけあるというのか。また書物をひもとくに先立って、真摯な懸念をいだきつつ「わたしはここに真理をみいだせるのか」と自問する読者がどれだけいるというのか」(ヴェイユ『根をもつこと』下, 岩波文庫, 119頁)。
July 1, 2025 at 9:22 AM
「著者が筆をとるに先立って、ついで原稿を印刷にまわすに先立って、真摯な懸念をいだきつつ「わたしは真理のうちにあるのか」と自問した印象を与える書物や論文がどれだけあるというのか。また書物をひもとくに先立って、真摯な懸念をいだきつつ「わたしはここに真理をみいだせるのか」と自問する読者がどれだけいるというのか」(ヴェイユ『根をもつこと』下, 岩波文庫, 119頁)。
【博論進捗】6.1.1「トゥルヌミーヌの批判から事象的結合へ」を書いた。ライプニッツは、トゥルヌミーヌからの批判に登場するデカルト主義的な心身結合概念を独自に読み替え、それを「形而上学的結合」として不必要と断じる。だがやがてライプニッツ自身、「形而上学的結合」を「実体的紐帯」の導入と相関的仕方で自らの哲学に持ち込む。この意味で、トゥルヌミーヌからの間接的で屈折的な影響を見出すことができる。先行研究では、影響を「与えた/与えない」という解釈が提示されていた。一旦拒否し、 →
July 1, 2025 at 12:35 AM
【博論進捗】6.1.1「トゥルヌミーヌの批判から事象的結合へ」を書いた。ライプニッツは、トゥルヌミーヌからの批判に登場するデカルト主義的な心身結合概念を独自に読み替え、それを「形而上学的結合」として不必要と断じる。だがやがてライプニッツ自身、「形而上学的結合」を「実体的紐帯」の導入と相関的仕方で自らの哲学に持ち込む。この意味で、トゥルヌミーヌからの間接的で屈折的な影響を見出すことができる。先行研究では、影響を「与えた/与えない」という解釈が提示されていた。一旦拒否し、 →
【博論進捗】第5章「支配的モナドによる心身結合の理論」を書いた。1703年に導入されることになった「支配的モナド」概念が、従来の魂概念に対して、より予定調和的な側面を強めた心身結合理論を提供することになったことを示しつつ、そうした〈支配–従属〉関係が可能になるためには有機的物体が前提されなければならないことを明らかにした。その上で、予定調和に基づく心身結合の理論に対するトゥルヌミーヌからの批判を紹介し、そうした批判を受けとるなかで、 →
June 29, 2025 at 6:00 AM
【博論進捗】第5章「支配的モナドによる心身結合の理論」を書いた。1703年に導入されることになった「支配的モナド」概念が、従来の魂概念に対して、より予定調和的な側面を強めた心身結合理論を提供することになったことを示しつつ、そうした〈支配–従属〉関係が可能になるためには有機的物体が前提されなければならないことを明らかにした。その上で、予定調和に基づく心身結合の理論に対するトゥルヌミーヌからの批判を紹介し、そうした批判を受けとるなかで、 →
「近代以降われわれは、人格とは一人一人違うものであり、その差異ゆえに尊いと考えてきた。「人格の開花」という表現にも、そうした異なる個性が社会において発現することこそが望ましいと捉える視点がある。しかしその時の個性の差異は、常に周囲にいかによい影響を及ぼし、社会にいかにその人が貢献するかという部分において現れ出る差異である。したがって人格の尊重とは、厳密にはそして明らかに現実には、社会においてその人が他者から優越する部分を尊敬することである、と〔ヴェイユは考える〕。そしてヴェイユは、 →
June 25, 2025 at 5:05 AM
「近代以降われわれは、人格とは一人一人違うものであり、その差異ゆえに尊いと考えてきた。「人格の開花」という表現にも、そうした異なる個性が社会において発現することこそが望ましいと捉える視点がある。しかしその時の個性の差異は、常に周囲にいかによい影響を及ぼし、社会にいかにその人が貢献するかという部分において現れ出る差異である。したがって人格の尊重とは、厳密にはそして明らかに現実には、社会においてその人が他者から優越する部分を尊敬することである、と〔ヴェイユは考える〕。そしてヴェイユは、 →
ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、III, 1, 5 を読んだ。主体的指向に基づく感得の統一について語られているのだけれど、主体的な統一によってこそ諸感得が合生に両立可能な仕方で入り込んでいくのだけれど、その統一自体は感得によって構成されていくという議論がなされている。ここで主体的統一というのがある種の「予定調和」だと語られる点も重要になる。予定調和というと具体的な目的のようなものが読み込まれてしまうようにも思われるけれど、そういう形にはなっていない。むしろ、 →
June 23, 2025 at 3:42 AM
ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、III, 1, 5 を読んだ。主体的指向に基づく感得の統一について語られているのだけれど、主体的な統一によってこそ諸感得が合生に両立可能な仕方で入り込んでいくのだけれど、その統一自体は感得によって構成されていくという議論がなされている。ここで主体的統一というのがある種の「予定調和」だと語られる点も重要になる。予定調和というと具体的な目的のようなものが読み込まれてしまうようにも思われるけれど、そういう形にはなっていない。むしろ、 →
ある種のシステムのうちでの私たちの不自由を常に念頭に置かねばならないだろう。「かくして、資本にもとづく生産は、一方では普遍的産業を創出する。[……]他方では、それは自然的および人間的諸性質の一般的搾取のシステム、すなわち一般的有用性の体系をも創出する。この体系の担い手として、科学そのものが、そしてあらゆる物理的および精神的性質が現れ、この社会的生産と交換の円環を超えたところには、それ自体として高次のものも、自らにおいて正当なものも、何ひとつ現れてこない」(マルクス, MEGA II/1.2: "Grundrisse", teil 2, S. 322)というような。
June 23, 2025 at 1:01 AM
ある種のシステムのうちでの私たちの不自由を常に念頭に置かねばならないだろう。「かくして、資本にもとづく生産は、一方では普遍的産業を創出する。[……]他方では、それは自然的および人間的諸性質の一般的搾取のシステム、すなわち一般的有用性の体系をも創出する。この体系の担い手として、科学そのものが、そしてあらゆる物理的および精神的性質が現れ、この社会的生産と交換の円環を超えたところには、それ自体として高次のものも、自らにおいて正当なものも、何ひとつ現れてこない」(マルクス, MEGA II/1.2: "Grundrisse", teil 2, S. 322)というような。
「権利の観念は事象的次元に属するので、外在性および現実性の観念と切りはなせない。義務が事象の領域におりてきたとき、権利の観念は現れる。よって、権利の観念には、つねにある程度まで事象の詳細と個別の状況をめぐる考慮が含まれる。諸権利は、つねに一定の条件とむすびついて現れる。ひとり義務のみ無条件たりうる。義務はあらゆる条件を超えた領域に位置する。この世をこえたところにあるからである」(ヴェイユ『根をもつこと』上巻, 岩波文庫, 8–9頁)
June 22, 2025 at 10:55 AM
「権利の観念は事象的次元に属するので、外在性および現実性の観念と切りはなせない。義務が事象の領域におりてきたとき、権利の観念は現れる。よって、権利の観念には、つねにある程度まで事象の詳細と個別の状況をめぐる考慮が含まれる。諸権利は、つねに一定の条件とむすびついて現れる。ひとり義務のみ無条件たりうる。義務はあらゆる条件を超えた領域に位置する。この世をこえたところにあるからである」(ヴェイユ『根をもつこと』上巻, 岩波文庫, 8–9頁)
【博論進捗】ようやく第1部の草稿が書き上がった(まだ一部未完だけど)。ここまでで10万字。じっさいに書いてみるまでよく分かっていなかったが、この感じだと全体で25–30万字くらいの雰囲気。第1部では、物体のうちに実体的なものを見出すという課題から出発したライプニッツが、「自然の機械」や「有機的機構」といった概念を定式化していき、やがて物体的なものの経験的探求から有機的物体の理念的な実体性へとアクセスするための方法論を打ち立てる道程を明らかにした。 →
June 22, 2025 at 8:40 AM
【博論進捗】ようやく第1部の草稿が書き上がった(まだ一部未完だけど)。ここまでで10万字。じっさいに書いてみるまでよく分かっていなかったが、この感じだと全体で25–30万字くらいの雰囲気。第1部では、物体のうちに実体的なものを見出すという課題から出発したライプニッツが、「自然の機械」や「有機的機構」といった概念を定式化していき、やがて物体的なものの経験的探求から有機的物体の理念的な実体性へとアクセスするための方法論を打ち立てる道程を明らかにした。 →
明治大学のライプニッツ演習はレポートの構想発表会であった。ラトー『ライプニッツの最善世界説』に出てくるトピックをお題にして各自レポートを書いてもらうことになる。ラトー自身が提示している王道の問いから、ラトーの議論の中で問題になった鋭い問いまで発表してもらって、文献を案内した。
June 20, 2025 at 8:21 AM
明治大学のライプニッツ演習はレポートの構想発表会であった。ラトー『ライプニッツの最善世界説』に出てくるトピックをお題にして各自レポートを書いてもらうことになる。ラトー自身が提示している王道の問いから、ラトーの議論の中で問題になった鋭い問いまで発表してもらって、文献を案内した。
成城大学での哲学講義10回目は、マルブランシュの自然的判断理論について扱った。単に物理的だったり幾何学的だったりの真理のみならず、ある個人に与えられるさまざまな印象が神の直通の判断を通して合成されることで感覚として現れるという別種の真理性について語ることの意味について考えた。
June 20, 2025 at 5:52 AM
成城大学での哲学講義10回目は、マルブランシュの自然的判断理論について扱った。単に物理的だったり幾何学的だったりの真理のみならず、ある個人に与えられるさまざまな印象が神の直通の判断を通して合成されることで感覚として現れるという別種の真理性について語ることの意味について考えた。
【博論進捗】朝6時に起きて7時から作業。3.3.1「感覚に与えられるものの知解可能性」を書き終えて3.3.2「理念的に感覚に与えられるものの認識」を執筆中。有機的物体が理念的な機械だとして、ある種の無限性を含み込んだ対象をいかにして感覚的に認識可能なのかということが問題となっている。ここでは、感覚においても知性と結びつくことで一定の知解可能性が与えられること、そうした知解可能性には想像力が関わっていることが論じられていく。この章もあと少し。 →
June 18, 2025 at 3:53 AM
【博論進捗】朝6時に起きて7時から作業。3.3.1「感覚に与えられるものの知解可能性」を書き終えて3.3.2「理念的に感覚に与えられるものの認識」を執筆中。有機的物体が理念的な機械だとして、ある種の無限性を含み込んだ対象をいかにして感覚的に認識可能なのかということが問題となっている。ここでは、感覚においても知性と結びつくことで一定の知解可能性が与えられること、そうした知解可能性には想像力が関わっていることが論じられていく。この章もあと少し。 →
東京女子大学ラテン語入門、少しずつ復習することが増えてきて復習だけで半分以上かかってしまっている。今日は、人称代名詞と指示代名詞、それと対格不定法について扱った。人称代名詞の属格は所有の意味では基本的に使わないことや、複数別形が「〜のうちの」という意味で使用されることも確認した。
June 17, 2025 at 6:14 AM
東京女子大学ラテン語入門、少しずつ復習することが増えてきて復習だけで半分以上かかってしまっている。今日は、人称代名詞と指示代名詞、それと対格不定法について扱った。人称代名詞の属格は所有の意味では基本的に使わないことや、複数別形が「〜のうちの」という意味で使用されることも確認した。
ラテン語の授業のために毎回小テストを作っていて、自分の勉強になっている。
June 16, 2025 at 2:06 PM
ラテン語の授業のために毎回小テストを作っていて、自分の勉強になっている。
【博論進捗】3.2.3を書いた。この箇所は、ライプニッツが「有機体論」の内実が、人工の機械にもとづく擬人主義的機械論なのではなく、むしろ人工の機械としては不可能であるような理念的な機械にもとづく理念的機械論であったことを明らかにしている。どちらも機械論的な知解可能性に乗っている点では同様だが、理念的機械論においては、対象それ自体を他の機械に類比的に捉えるのではなく、それ自体として捉えるという方法が採用されることになる。したがって、〈どのように〉を問うような機械論ではなく、 →
June 16, 2025 at 6:41 AM
【博論進捗】3.2.3を書いた。この箇所は、ライプニッツが「有機体論」の内実が、人工の機械にもとづく擬人主義的機械論なのではなく、むしろ人工の機械としては不可能であるような理念的な機械にもとづく理念的機械論であったことを明らかにしている。どちらも機械論的な知解可能性に乗っている点では同様だが、理念的機械論においては、対象それ自体を他の機械に類比的に捉えるのではなく、それ自体として捉えるという方法が採用されることになる。したがって、〈どのように〉を問うような機械論ではなく、 →
「虐待的環境を生きるということは、自分の存在を否定することで、世界の合理性を獲得することなんですね。すごいことです。自分を徹底して否定することで、世の中が説明できる。世の中はそれなりに合理的なんだ、なぜなら自分が悪いから」(信田さよ子『なぜ人は自分を責めてしまうのか』)。
June 13, 2025 at 8:32 AM
「虐待的環境を生きるということは、自分の存在を否定することで、世界の合理性を獲得することなんですね。すごいことです。自分を徹底して否定することで、世の中が説明できる。世の中はそれなりに合理的なんだ、なぜなら自分が悪いから」(信田さよ子『なぜ人は自分を責めてしまうのか』)。
明治大学でのライプニッツ演習、第3章第1節を読んだ。最善世界は進歩するのか?という問いについて、ライプニッツがどのようなタイプの世界の進歩を考えていたのか(各部分はより良いものになっていく、あるいは全体としてはどんどん良くなるが、各部分は良くなったり悪くなったりする、など)。
June 13, 2025 at 8:18 AM
明治大学でのライプニッツ演習、第3章第1節を読んだ。最善世界は進歩するのか?という問いについて、ライプニッツがどのようなタイプの世界の進歩を考えていたのか(各部分はより良いものになっていく、あるいは全体としてはどんどん良くなるが、各部分は良くなったり悪くなったりする、など)。
成城大学での哲学講義第9回はマルブランシュの叡智的延長、物質的延長、感覚的延長について。「神を介して見る」ライプニッツに対する「神において見る」マルブランシュの理論を考える。場所を占有しない神の叡智的延長が、心身結合と感覚器官を通して、感覚的延長として個別化される議論を紹介した。
June 13, 2025 at 5:33 AM
成城大学での哲学講義第9回はマルブランシュの叡智的延長、物質的延長、感覚的延長について。「神を介して見る」ライプニッツに対する「神において見る」マルブランシュの理論を考える。場所を占有しない神の叡智的延長が、心身結合と感覚器官を通して、感覚的延長として個別化される議論を紹介した。
【博論進捗】第1部3.3.1-3.3.2を書いた。ライプニッツが用いる「有機的機構」概念の生成史と方法論としての機械論について。organisme にあたる語の使用は以前から認められるが、意識的に哲学的な概念として用いられるのは1704年5月のマサム夫人との往復書簡において。
そうした概念を基に対象を捉える方法を有機体論として定義する上で、機械論との対比を考える。そもそも mécanisme も方法論としての機械論というより、機械的機構を指し示す語であったが、語の使用と切り離して、方法論としての機械論をライプニッツのテクストのうちに見出す試み。
そうした概念を基に対象を捉える方法を有機体論として定義する上で、機械論との対比を考える。そもそも mécanisme も方法論としての機械論というより、機械的機構を指し示す語であったが、語の使用と切り離して、方法論としての機械論をライプニッツのテクストのうちに見出す試み。
June 11, 2025 at 5:37 AM
【博論進捗】第1部3.3.1-3.3.2を書いた。ライプニッツが用いる「有機的機構」概念の生成史と方法論としての機械論について。organisme にあたる語の使用は以前から認められるが、意識的に哲学的な概念として用いられるのは1704年5月のマサム夫人との往復書簡において。
そうした概念を基に対象を捉える方法を有機体論として定義する上で、機械論との対比を考える。そもそも mécanisme も方法論としての機械論というより、機械的機構を指し示す語であったが、語の使用と切り離して、方法論としての機械論をライプニッツのテクストのうちに見出す試み。
そうした概念を基に対象を捉える方法を有機体論として定義する上で、機械論との対比を考える。そもそも mécanisme も方法論としての機械論というより、機械的機構を指し示す語であったが、語の使用と切り離して、方法論としての機械論をライプニッツのテクストのうちに見出す試み。
東京女子大学のラテン語初級、今日は未完了過去と未来の時制の動詞について扱った。前者に関しては現在幹さえ作ってしまえば、わりと規則的な変化なので覚えやすい。未来時制は、第一・第二変化動詞と第三・第四変化動詞でだいぶ変化の仕方が違うので、分けて覚える必要がある。
June 10, 2025 at 6:12 AM
東京女子大学のラテン語初級、今日は未完了過去と未来の時制の動詞について扱った。前者に関しては現在幹さえ作ってしまえば、わりと規則的な変化なので覚えやすい。未来時制は、第一・第二変化動詞と第三・第四変化動詞でだいぶ変化の仕方が違うので、分けて覚える必要がある。
【博論進捗】第3章第1節第1項を書いていた。この部分では、ライプニッツが用いる「有機的機構(organisme)」概念が、具体的な個別の身体を指すものではなく、一般的な物体の在り方を指示するものであることを示している。その語が複数形では用いられないこと、また魂と結びついて生物を構成すると語られるのは有機的機構ではなく「有機的物体」や「自然の機械」であることを指摘することなどが、その論拠として挙げられることになる。この意味で、「有機的機構」概念は、 →
June 9, 2025 at 1:17 PM
【博論進捗】第3章第1節第1項を書いていた。この部分では、ライプニッツが用いる「有機的機構(organisme)」概念が、具体的な個別の身体を指すものではなく、一般的な物体の在り方を指示するものであることを示している。その語が複数形では用いられないこと、また魂と結びついて生物を構成すると語られるのは有機的機構ではなく「有機的物体」や「自然の機械」であることを指摘することなどが、その論拠として挙げられることになる。この意味で、「有機的機構」概念は、 →
ホワイトヘッドの season について『観念の冒険』を眺めていた。善だけでなく美や真理についても同様に語られる。「時機を外した(unseasonable)芸術は、時機を外した冗談に類似している。すなわち、適切な場においては善であるにせよ、その場を外れれば積極的な悪となる」(Adventures of Ideas, 268)。「真理は時機に適して(seasonable)いなければならない」(同, 243)。ある種の相対性とも言えるが、ホワイトヘッドは単に相対的であることを語るというより、 →
June 9, 2025 at 6:21 AM
ホワイトヘッドの season について『観念の冒険』を眺めていた。善だけでなく美や真理についても同様に語られる。「時機を外した(unseasonable)芸術は、時機を外した冗談に類似している。すなわち、適切な場においては善であるにせよ、その場を外れれば積極的な悪となる」(Adventures of Ideas, 268)。「真理は時機に適して(seasonable)いなければならない」(同, 243)。ある種の相対性とも言えるが、ホワイトヘッドは単に相対的であることを語るというより、 →
ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、III, 1, 4–5 を読み進めた。第4節の後半部分では新たなものが「時機(season)」を誤って生じてくることにおいて悪が存するとされる。「事実の連鎖はあたかも珊瑚礁のようなものである。一方には座礁が生じ、他方には避難所と安全がある」という比喩で説明されている。時節が展開するうちにおいて生じる多様なもののうち、一部は珊瑚礁のうちへと取り込まれ、そうでないものは悪として排除されていく。ここで考えられているのは〈調和/不調和〉という問題なのだろう。 →
June 9, 2025 at 4:09 AM
ホワイトヘッド『過程と実在』読書会にて、III, 1, 4–5 を読み進めた。第4節の後半部分では新たなものが「時機(season)」を誤って生じてくることにおいて悪が存するとされる。「事実の連鎖はあたかも珊瑚礁のようなものである。一方には座礁が生じ、他方には避難所と安全がある」という比喩で説明されている。時節が展開するうちにおいて生じる多様なもののうち、一部は珊瑚礁のうちへと取り込まれ、そうでないものは悪として排除されていく。ここで考えられているのは〈調和/不調和〉という問題なのだろう。 →