リヴァイアサンbot
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1651年発刊、トマス・ホッブス著、4時間毎に1回ランダム+αにつぶやく仕様。第一巻、第二巻、第三巻、第四巻、付録完了、付録「ニケア信仰箇条について」「異端について」「リヴァイアサンに対するいくつかの反論について」のABの返答、 x https://twitter.com/bot29493657 mastodon https://mastodon.social/@leviathanbot
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統御するように なり、それらのうちのあるものを諸法の遵守への拍車、他のものをかれらが諸法をじゅうりんす るのをおさえる手綱として、一方を善良な魔物たち、他方を邪悪な魔物とするようになったので ある。
剣のつゆとなるよりも、かれらの武器をすて、降服者助命をもとめ、あるいは逃走するのと、お なじようである。 人びとがコモンウェルスを建設し、かれらの保護に十分な権力を信託された 君主たちや諸合議体のもとに自分たちをおくにさいしての、
しかしながら、人は、かれの弁明が、それ自体としては不十分なものであっても、受容された ばあいは、やはり義とされたといわれる。われわれが、法をおこなおうというわれわれの意志われわれの努力があったと弁明しわれわれの失敗について後悔し神がそれを遂行そのもののかわりに受容するばあいのごとくである
(異端)Bギリシャ主義は、ユダヤ主義もともに、キリスト教も、 このときはそれだけの数の異端とみなされていた。また、異端は、ガラテア・五で、罪のなかに いれられている。そしてガラテア・一では、聖パウロの教義に反する教義、すなわちキリストの 福音に反する教義を意味する。
これがこの教義を証明するのにつかおうとしている諸論拠を、考察しはじめるまえに、それのあきらかにすることは、不都合ではないだろう。
そして、そのなかで、 あるいは(かれらの不在のときには)それにむかって、祈るであろうかれの召使たちの、祈りをき いてくれるように、ということである。そしてさいごに、かれは謝恩のいけにえをささげ、こうしてその家は献納されたのである。ここには、なんの行列もなかった。
神がアブラハムと(超自然的なやりかたで) むすんだ信約は、 「これは、自分とおまえおよびその後の子孫とのあいだで、おまえたちがまもるべき信約である」 《創世・一七・一〇》というのであった。
それにもかかわらず、わたくしはその本文自体が示唆していることについては、もっと学識 ある神学者たちの考察にゆだねよう。まず、三位一体の第三の人格である聖霊にそむいてかたるとは、聖霊がすんでいる教会にそむいてかたることである、ということからすれば、
このことが、正邪についての学説が、 ペンと剣との双方によって、永遠にあらそわれる原因なのだが、それに対して、線と図形につい ての学説は、そうではない。
(異端)Bそしてそれは忌まわしい偽善者といわれたもの、すなわち聖書のことばではサタンに身をゆだねられたものとして、アナテーマを宣言されたのかもしれない。
その法にしたがえば 正当とおもわれるだろうよりもおおくを、要求するのではないと宣告しているのである。だから、 うったえることは、主権者の意志に反しないのであり、その帰結として、臣民は、かれの訴訟事 件の審理とその法に応じた判決とを、もとめる自由を有する。
また おなじように、理性と雄弁は(おそらく自然諸科学においてではないが、道徳諸科学においては、きわめてよく両立するだろう。なぜなら、どこでも誤謬を讃美し選好する余地のあるところで は真理を讃美し選好する余地は、もし讃美すべき真理を人びとがもつならば、はるかにおおきいの だからである。
というのは、 愛することも、おそれることも、たかく評価することだからである。軽視したり、かれが期待す るよりすくなく愛したりおそれたりするのは、不名誉にすることである。なぜなら、それは過少評価することだからである。ほめたたえあるいは幸福だとよぶことは名誉を与えることである
すなわち、可能なかぎりもっとも 高賞で有益なあらそいが生じ、そこにおいて勝利者はかれの勝利をよろこび、 他方はそれを告白 することによってしかえしをするのだからである。
他のすべてのキリスト教的な人びとの気持をその他の徳性へ、むかわせるようなやりかたにおけるそれをみるのである。このやりかたは、 素質 Constitution、指導、教育と、
それは ちょうど、病気のある両親からうまれた子供たちの肉体が、ときならぬ死にみまわれるか、そう でなければ、かれらのわるい受胎からでたわるい素質を、胆汁や疥癬としてだすことによって駆 除するようになるかの、いずれかであるのとおなじである。
そうではなくて、「おまえがそれからたべる日に、おまえはたしかに死 ぬだろう」といわれているところでは、必然的に、かれの死ぬべきさだめ、死の確実性が、意味 されているにちがいない。
天の王国においては結婚がないということからすれば、そのば あい人びとは飲食するであろうか、だからこの箇所で、どんなたべることが意味されているのか。 このことはわれわれの救世主によって(ヨハネ福音・六・二七)、かれがつぎのようにいうばあい に、説明されている。
《僧職者の免除》第三に、これらおよび他のすべての祭司、すべての修道士と托鉢修道士とを、 市民法の権力から免除することである。
(反論について)A 第三に、第六章のおわりのあたりで、「恐怖するものによって(とかれはいう)仮想され、あるいは、公認の物語から構想された、みえない力への恐怖は宗教であり、公認されないならば、 迷信である、そして、この恐怖された力がほんものであるとき、それは真の宗教である。」
必然的にでてくるのは、かれはまたほんとうのキリストであるイコスの敵対者であるにちがいない、ということであり、 それは、反キリストということばの、もうひとつの通常の意味である。
しかしながら、ソロモン王が(列王上・二・二六)祭司長アピアクルからその職務 うぽって、かれのかわりにザドクをおいた(三五節)ことは、たしかである。
政治的主権者が、審判者(裁判官)を任命し、聖書の規範的 Canonicall(正典的)諸篇の解釈者を任命すべきであって、それらの文書を法たらしめるのは、かれなのだからである。
それらは給料ではないからであって、なぜかといえば、各人はすでに、コモンウェルスの ためにならないことをしないように義務づけられているので、なんの契約もこのばあいに想定さ れないからである。
さまざまな箇所があって、それらは一見したところこの傾向に十分に役だつようにおもわれるが、しかし、それらを、わたくしがまえに (第三十八章) ヨブ記第一四章からひきあいにだしたものと、 比較するようなときは、