ニーチェ(374),ウィトゲンシュタイン(302),三島由紀夫(237),シュペングラー(200),ゲーテ(177),ドストエフスキー(112),カフカ(105),聖書(98),カント(97),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(39),その他(355)
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「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、ほぼ三種類に分けられるにいたりました。しかし一九六〇年の安保闘争は、青年層の一部に「日本はこれでいいのか」といふ深刻な反省をもたらし、学校で教へてくれなかつた日本の歴史と伝統に自ら着目して、
「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、ほぼ三種類に分けられるにいたりました。しかし一九六〇年の安保闘争は、青年層の一部に「日本はこれでいいのか」といふ深刻な反省をもたらし、学校で教へてくれなかつた日本の歴史と伝統に自ら着目して、
(カフカ 日記 1922.5.19)
ずいぶん遠くまで歩きました。五時間ほど、ひとりで。それでも孤独さが足りない。まったく人通りのない谷間なのですが、それでもさびしさが足りない。
(カフカ フェリーツェへの手紙)
まだ生れてもいないのに、もう街を歩きまわり、人びとと話をさせられる破目になること。
(カフカ 日記 1922.3.15)
(カフカ 日記 1922.5.19)
ずいぶん遠くまで歩きました。五時間ほど、ひとりで。それでも孤独さが足りない。まったく人通りのない谷間なのですが、それでもさびしさが足りない。
(カフカ フェリーツェへの手紙)
まだ生れてもいないのに、もう街を歩きまわり、人びとと話をさせられる破目になること。
(カフカ 日記 1922.3.15)
高級典型を考えだすすべての試みが失敗する。
その成果は、高級典型に対する反抗。
すべての高級典型の衰退と不安定。天才に対する闘争(「民衆文学」その他)。魂の高さをはかる尺度としての低劣な者や苦悩する者への同情。
(ニーチェ『権力への意志』27)
高級典型を考えだすすべての試みが失敗する。
その成果は、高級典型に対する反抗。
すべての高級典型の衰退と不安定。天才に対する闘争(「民衆文学」その他)。魂の高さをはかる尺度としての低劣な者や苦悩する者への同情。
(ニーチェ『権力への意志』27)
(ウィトゲンシュタイン ドゥルーリーとの会話 1948秋)
ドゥルーリー「私はプラトンの『パルメニデス』を読もうとしましたが、さっぱりわかりませんでした」
ウィトゲンシュタイン「その対話篇は、プラトンの著作の中で最も深いと思います」
(ウィトゲンシュタイン ドゥルーリーとの会話 1948秋)
(ウィトゲンシュタイン ドゥルーリーとの会話 1948秋)
ドゥルーリー「私はプラトンの『パルメニデス』を読もうとしましたが、さっぱりわかりませんでした」
ウィトゲンシュタイン「その対話篇は、プラトンの著作の中で最も深いと思います」
(ウィトゲンシュタイン ドゥルーリーとの会話 1948秋)
午後には、朝の希望は葬り去られている。こんな生活と折合いをつけていくことは不可能だ。そんなことができた人間はいまだかつて存在しなかったはずだ。他の人ならこの限界まで来たら──ここまで来たらしいということが、すでに惨憺たることなのだ──背を返してしまうだろう。僕にはそれができない。
午後には、朝の希望は葬り去られている。こんな生活と折合いをつけていくことは不可能だ。そんなことができた人間はいまだかつて存在しなかったはずだ。他の人ならこの限界まで来たら──ここまで来たらしいということが、すでに惨憺たることなのだ──背を返してしまうだろう。僕にはそれができない。
劇場へ行っても、喫茶店へ行っても、動物園へ行っても、
遊園地へ行っても、町を歩いても、よしんば郊外へ出掛けても、いたるところで多数決原理が誇りかに闊歩していた。老夫婦、中年の夫婦、若夫婦、恋人同士、家族連れ、子供、子供、子供、子供、子供、その上呪うべき乳母車というやつから成る行列である。歓呼しながら進む行進である。
劇場へ行っても、喫茶店へ行っても、動物園へ行っても、
遊園地へ行っても、町を歩いても、よしんば郊外へ出掛けても、いたるところで多数決原理が誇りかに闊歩していた。老夫婦、中年の夫婦、若夫婦、恋人同士、家族連れ、子供、子供、子供、子供、子供、その上呪うべき乳母車というやつから成る行列である。歓呼しながら進む行進である。
こうした付属物と呼ばれる。たとえば絵画の額縁が黄金で作られている場合のように、装飾がそれ自体で美しい形式を持たずに、ただその魅力によって絵画の美しさにたいする賛同を促すものであれば、その場合にはその装飾は"虚飾"と呼ばれ、真の美を損ねるものとなる。
(カント『判断力批判』116)
こうした付属物と呼ばれる。たとえば絵画の額縁が黄金で作られている場合のように、装飾がそれ自体で美しい形式を持たずに、ただその魅力によって絵画の美しさにたいする賛同を促すものであれば、その場合にはその装飾は"虚飾"と呼ばれ、真の美を損ねるものとなる。
(カント『判断力批判』116)
唯物論は上べだけ単純な単位を、直観的にしても概念的にしても、確定することで満足している。その単位の因果的な遊戯は、秘密の残り物を余すところなくすっかり説明し、そして超自然的なことを無知のせいにして満足している。しかしエネルギーと物質量についての大きな知的神話は同時にひとつの巨大な
唯物論は上べだけ単純な単位を、直観的にしても概念的にしても、確定することで満足している。その単位の因果的な遊戯は、秘密の残り物を余すところなくすっかり説明し、そして超自然的なことを無知のせいにして満足している。しかしエネルギーと物質量についての大きな知的神話は同時にひとつの巨大な
部下たちのほうは批判的な目で、それを傍観しているのだが。
(ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1931.10.14)
部下たちのほうは批判的な目で、それを傍観しているのだが。
(ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1931.10.14)
(カフカ 日記 1922.1.27)
橇滑りをしているときの不安。つるつる滑る雪の上を歩くことの心もとなさ。今日読んだある短篇小説が、いつも身近にありながら長いこと気にとめないでいたその考えを、ふたたび浮かび上らせた。つまり、ぼくの没落の原因は、単なる気違いじみた利己心や自分のことでの心配にすぎず、
(カフカ 日記 1922.1.27)
橇滑りをしているときの不安。つるつる滑る雪の上を歩くことの心もとなさ。今日読んだある短篇小説が、いつも身近にありながら長いこと気にとめないでいたその考えを、ふたたび浮かび上らせた。つまり、ぼくの没落の原因は、単なる気違いじみた利己心や自分のことでの心配にすぎず、
僕はあの連中が大好きでね……だってさ、あの連中は悪魔があの世から角を見せてくれるから、自分たちが信仰にとって役立つ存在だと思っているんだからね。『これは、あの世が存在することの、いわば物的証拠にほかならない』だとさ。あの世と物的証拠、やれやれだ! それに結局、悪魔の存在が
僕はあの連中が大好きでね……だってさ、あの連中は悪魔があの世から角を見せてくれるから、自分たちが信仰にとって役立つ存在だと思っているんだからね。『これは、あの世が存在することの、いわば物的証拠にほかならない』だとさ。あの世と物的証拠、やれやれだ! それに結局、悪魔の存在が
われわれに見えるのは、自分がなにをもっているかだけであって、自分がなにであるかは見えないのだ。ウソをつかなければ、それだけで独創的であると言える。望ましい独創性とは、芸当のようなものではないわけだし、どんなに特徴のある個性でも、それを独創性とは呼べないわけだから。
われわれに見えるのは、自分がなにをもっているかだけであって、自分がなにであるかは見えないのだ。ウソをつかなければ、それだけで独創的であると言える。望ましい独創性とは、芸当のようなものではないわけだし、どんなに特徴のある個性でも、それを独創性とは呼べないわけだから。
「五歳の子供と自分との間には、たった一歩の差があるだけだ。ところが生まれたばかりの子供と五歳の子供との間には、恐ろしい隔たりがある」といつかトルストイがいった。現存在のこの決定的な瞬間において人間は初めて人間となり、そうして宇宙における自己の大きな孤独を知る。ここにおいて
「五歳の子供と自分との間には、たった一歩の差があるだけだ。ところが生まれたばかりの子供と五歳の子供との間には、恐ろしい隔たりがある」といつかトルストイがいった。現存在のこの決定的な瞬間において人間は初めて人間となり、そうして宇宙における自己の大きな孤独を知る。ここにおいて
(宇佐見りん『かか』)
俗に、脛に傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、
(宇佐見りん『かか』)
俗に、脛に傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、
独自の思想をお持ちの場合は、使いこなせないか、そのどちらかです。』すばらしいじゃないか? モーツァルトの音楽について言ったこの偉大な言葉は、他のあらゆる芸術にも通用するのではなかろうか?」
ゲーテはつづけた、「レオナルド・ダ・ヴィンチはこういっているよ、
独自の思想をお持ちの場合は、使いこなせないか、そのどちらかです。』すばらしいじゃないか? モーツァルトの音楽について言ったこの偉大な言葉は、他のあらゆる芸術にも通用するのではなかろうか?」
ゲーテはつづけた、「レオナルド・ダ・ヴィンチはこういっているよ、
(出エジプト記 20:3-5)
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
(出エジプト記 20:3-5)
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
何故ならその細部の美、その柱、その勾欄、その蔀戸、その板唐戸、その華頭窓、その宝形造の屋蓋、……その法水院、その潮音洞、その究竟頂、その漱清、……その池の投影、その小さな島々、その松、その舟泊りにいたるまでの細部の美を点検すれば、
何故ならその細部の美、その柱、その勾欄、その蔀戸、その板唐戸、その華頭窓、その宝形造の屋蓋、……その法水院、その潮音洞、その究竟頂、その漱清、……その池の投影、その小さな島々、その松、その舟泊りにいたるまでの細部の美を点検すれば、
あらゆる人が、以前は思想においても共通していたものを、一から十まで棚上げにして、自分だけの独自な思想と感情から出発しようとしている。
(ドストエフスキー『作家の日記』1876.3)
あらゆる人が、以前は思想においても共通していたものを、一から十まで棚上げにして、自分だけの独自な思想と感情から出発しようとしている。
(ドストエフスキー『作家の日記』1876.3)
「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。
(三島由紀夫『劇画における若者論』)
「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。
(三島由紀夫『劇画における若者論』)
僕らは思い止まらんだろう、出かけて行って闘るだろう。すなわち我々の推論よりも力強いある力が存在する。我々は常々声を大にして、戦争は追剥だ、蛮行だ、戦慄だ、兄弟殺しだと叫ぶ。我々は失神せずして血を見ることはできない。しかしフランスやドイツが一度でも我々を凌辱したら最後、我々の士気は
僕らは思い止まらんだろう、出かけて行って闘るだろう。すなわち我々の推論よりも力強いある力が存在する。我々は常々声を大にして、戦争は追剥だ、蛮行だ、戦慄だ、兄弟殺しだと叫ぶ。我々は失神せずして血を見ることはできない。しかしフランスやドイツが一度でも我々を凌辱したら最後、我々の士気は
どれほど多くの、解明された明白な神秘があることだろうか。神はヨブをふたたび立ち直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供たちを愛している。だが「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、
どれほど多くの、解明された明白な神秘があることだろうか。神はヨブをふたたび立ち直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供たちを愛している。だが「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、
一個の人間の歴史像──したがってその人間自身──を、日常の偶然が決定的に支配すればするほど、その像はますます浅薄になってくる。同様にして、歴史記述が、純粋な事実的関係を確定して、その対象を書き尽くそうとすればするほど、ますます空虚になることは当然である。
一個の人間の歴史像──したがってその人間自身──を、日常の偶然が決定的に支配すればするほど、その像はますます浅薄になってくる。同様にして、歴史記述が、純粋な事実的関係を確定して、その対象を書き尽くそうとすればするほど、ますます空虚になることは当然である。
にもかかわらず、私は四つの福音都はすべて完全に真実なものだと考えている。それらには、キリストの人格からほとばしり出た崇高さの、そしてかつてこの地上にあらわれた神と同じような神々しい崇高さの反映があるからだ。もし、自分の性質にキリストへ畏敬の念をささげる気持があるかと問われたら、
にもかかわらず、私は四つの福音都はすべて完全に真実なものだと考えている。それらには、キリストの人格からほとばしり出た崇高さの、そしてかつてこの地上にあらわれた神と同じような神々しい崇高さの反映があるからだ。もし、自分の性質にキリストへ畏敬の念をささげる気持があるかと問われたら、
生きるか死ぬかしかない場で狙いが果たせるように分別することは、不可能だ。自分も人も生きる方がすきだ。往々にして好きな方に理屈が付くものだ。それでもし狙いを外して生き延びたならば、腰抜けである。この境目はあてにならない。一方、狙いを外して死ぬならば、
生きるか死ぬかしかない場で狙いが果たせるように分別することは、不可能だ。自分も人も生きる方がすきだ。往々にして好きな方に理屈が付くものだ。それでもし狙いを外して生き延びたならば、腰抜けである。この境目はあてにならない。一方、狙いを外して死ぬならば、
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部231)
共に苦しむことではなく、共によろこぶことが友人をつくる。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』499)
自分のことを全然語らないのはきわめて上品な偽善である。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』504)
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部231)
共に苦しむことではなく、共によろこぶことが友人をつくる。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』499)
自分のことを全然語らないのはきわめて上品な偽善である。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』504)