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ぼくのかんがえたさいきょうのbot ニーチェ(379),ウィトゲンシュタイン(327),三島由紀夫(241),シュペングラー(205),ゲーテ(180),ドストエフスキー(115),カフカ(102),聖書(99),カント(99),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(37),その他(356) 2時間毎に投稿します 4.5ヶ月くらいで1周します
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個々の悟性がすべてそれに適合し、感情はかならずしも賛成しないが、理性はそれに対して何一つ手出しのできない、無限の悟性。
観察者は一般的な因果関係を捜し出し、それによってさまざまの類似の現象を一般的な原因に帰する。手近な現象はめったに考えられることがない。
人間は現象発現における無限の条件に覆い尽されているので、唯一の、根源的に条件づけるものを認めることができない。
わたしたちは派生した現象のなかに生きていて、いかにして原問題に達すべきかをまったく知らない。
(ゲーテ『箴言と省察』認識と学問)
世界平和時代の戦争は、無形式であるがために国家戦争よりもものすごい個人的戦争である。
なんとなれば、世界平和──これはすでにしばしば存在していた──の含むものは、巨大な大衆が戦争を個人的に放棄することである。しかしそれとともに、戦争を放棄"しない"他国の獲物となることを暗黙のうちに
用意していることも含んでいる。それは一般的和解という国家破壊的願望に始まり、不幸の落ちるのが隣人の上だけという間は誰も手を動かさない、ということで終わる。すでにマルクス・アウレリウスの治下では各都市、各農地は自分のことしか考えなかった。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第4章14)
卑劣漢どもは、"無教育"な退嬰的な信心家と云って余を嘲笑している。ああした薄野呂どもは、『大審問官』及びそれに先行する一章の中に盛られたような力強い神の否定を、夢にさえ見たことがないのだ。"あの小説全体"は、要するにこの否定に対する答弁なのである。余はただの愚物としてでなく
(狂信者としてでなく)、神を信じているのだ。ところが、彼等は余を教えようとしている。余の発達程度が低いのを冷笑している! いやはや、彼等の愚かな頭には、イワンの体験して来たような否定の力など夢にも見られはしない。彼等が余を教えるとは片腹痛い!
(ドストエフスキー)
こんにち交わっている人々の中に、なおベートーベンやシェークスピアを楽しむことのできる人があろうか? 各自、自己の感情にしたがってこの問いに答えるがいい。いずれにしても、その答えによって、各自が「教養」とはいかなるものと思っているかが示されるであろう。
(ニーチェ『悲劇の誕生』22)
劇場や演奏会では批評家が、学校ではジャーナリストが、社会では新聞が支配権を獲得した半面、芸術はきわめて低劣な娯楽の対象に変ってしまった。そして美的批評は、空虚なまとまりのない利己的な、そしてさらに憐れむべく非独創的な社交界の接合剤として利用された。
こうした社交界の意義については、あのやまあらしについてのショーペンハウアーの寓話がよく言い当てているところである。その結果、この時代ほど芸術がしゃべられた時代もないが、またこの時代ほど芸術が尊重されなかった時代もない。けれども、
君にもよく納得がゆくだろう。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない。……」
(三島由紀夫『禁色』第33章)
美の前提条件だ。官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮げるから。希臘人が彫刻でもって美を表現したのは、
賢明な方法だった。私は小説家だ。近代の発明したもろもろのがらくたのうち、がらくたの最たるものを職業にした男だよ。美を表現するにはもっとも拙劣で低級な職業だとは思わないかね。
此岸にあって到達すべからざるもの。こう言えば、
「……そうして、美とは、いいかね、美とは到達できない此岸なのだ。そうではないか? 宗教はいつも彼岸を、来世を距離の彼方に置く。しかし距離とは、人間的概念では、畢竟するに、到達の可能性なのだ。科学と宗教とは距離の差にすぎない。六十八万光年の彼方にある大星雲は、やはり、
到達の可能性なのだよ。宗教は到達の幻影だし、科学は到達の技術だ。
美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前しており、確乎として手に触れることができる。われわれの官能が、それを味わいうるということが、
この偶然的な絶望は、それが時代を全的に生きようとする欲求であることを通して、生の一面である。 決定論的な前提を全く控除した生の把握がそこにみられる。ここではどのやうな意味でも生の放棄はありえない。
(三島由紀夫『美しき時代』)
「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に生きようとする欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられたものではなく、偶発的なものである。なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。
しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く必然的に生きさせるのである。彼らにとつては、偶発的な絶望によって現代が必然化されてをり、いひかへれば、絶望の対象である現代は、彼らにとつて偶然の環境ではない。
実は君たち自身の根性なのであることを。
もしかりに君たちが、現在の君たちのように、自分の"財産"を、またその保持のための憂慮をもたないとするならば、こういう君たちの根性は君たちを社会主義者に仕立てあげていることだろう。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部304)
"革命精神と所有精神の人々"。──社会主義に対抗する手段のうちでまだ君たちの力のおよびうる唯一の手段はこうである──社会主義を挑発しないこと、すなわち自ら適度にまた控え目に生活すること、いかなる奢侈のひけらかしも及ぶ限り避けること、そして、国家があらゆる余剰なものやぜいたく品の
類いに手痛く課税してきた場合は、国家に協力すること。君たちはこの手段を望まないというのか? それでは、「自由主義(リベラル)」を標榜する君たち裕福なブルジョアよ、さあ白状してしまいたまえ、君たちが社会主義者どものなかにあれほど恐ろしげに、またあれほどおびえて見いだした彼らの根性は、
しかし私はあなたのさとしを深く思います。
あなたをおそれる者と、
あなたのあかしを知る者とを
私に帰らせてください。私の心を全くして、
あなたの定めを守らせてください。
そうすれば私は恥をこうむることがありません。
(詩篇 119:73-80)
あなたのみ手は私を造り、
私を形造りました。
私に知恵を与えて、
あなたの戒めを学ばせてください。
あなたを恐れる者は私を見て喜ぶでしょう。
私はみ言葉によって望みをいだいたからです。
主よ、私はあなたのさばきの正しく、
また、あなたが真実をもって
私を苦しめられたことを知っています。
あなたがしもべに告げられた約束にしたがって、
あなたのいつくしみをわが慰めとしてください。
あなたのあわれみを私に臨ませ、
私を生かしてください。あなたのおきてはわが喜びだからです。
高ぶる者に恥をこうむらせてください。
彼らは偽りをもって、私をくつがえしたからです。
人はだれでも自分の流儀で考えなければならない。なぜなら、自分の歩く道につねに真実、あるいは生涯の助けとなる一種の真実が見つかるからである。ただ、自分を甘やかしてはいけない。自分を制御しなければならない。赤裸々な本能は人間にはふさわしくない。
(ゲーテ『箴言と省察』認識と学問)
今の時代には、だれも沈黙したり譲歩したりしてはならない。人に勝つためにではなく、自分の陣地を守るために、発言し、活動しなければならない。多数派に属するか、少数成に属するかはまったくどうでもいいことだ。
汝の立つ場所を守り通せ。この箴言はいつにもまして必要になっている。一方では人びとが大きな党派に分裂しながら、各個人はそれぞれの見識と能力に応じて自己主張をしようとしているからである。
仮説を築き、この仮説から極めて多種多様な無際限の現象を説明しようとしたことである。
ひたすら分析に没頭し、綜合をいわば恐れるような世紀は正しい道にあるとは言われない。なぜなら、呼気と吸気のように、両者が一緒になって初めて科学の生命をなすからである。
(ゲーテ『科学方法論』分析と綜合)
科学の愛好者と信奉者は、誤った綜合、つまり我々に伝えられてきた仮説を再検討し、解明し、明瞭にし、"直接自然に立ち向かう"という古来の権利を人間精神に再び得させることをないがしろにしている。
自然を観察する際に分析的なやり方を適用すること、すなわち、何かある所与の対象からできる限りの
個々のことがらを展開させ、それらをこのようにして知るだけでは充分ではない。我々はこの同じ分析を既成の綜合に適用して、果たして正しく、真実の方法に従って仕事にかかったかどうか見きわめなければならない。
ニュートンの犯した誤りは、唯一の、しかも人為的な現象を根底に据え、そのうえに
しかしいつでも政党として登場するものは、身分の本質一般に対する抗議の単位である非身分であり、その指導的少数者──「教養と所有」──である。ゆえに根本においては、ただ一つの政党があるにすぎない。ブルジョアの政党、自由主義の政党であって、それはこの地位を完全にまで意識している。
政党は自己を「民衆」と同一視している。その反対者、とくに真の身分なる「ユンカーと坊主」とは「"民衆"」の敵であり、裏切者であり、政党の意見は「"民衆の声"」である。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第4章17)
つくりあげられる──、すなわち、"信仰は研究そのものを排斥する"──。
"或る程度の"信仰は、今日では私たちには、信仰されているものに対する"異議"として十分である。──それどころか、その信仰者の精神的健康にうたれた疑問符である。
(ニーチェ『権力への意志』455-456)
"心理学的な取りちがえ"。──"信仰への願望"は──「真理への意志」と取りちがえられる。
しかるに"無信仰への願望"も同じく「真理への意志」と取りちがえられた(──さまざまの理由によって或る信仰からぬけでたいとの欲求。すなわち、なんらかの「信者」に対するおのれの正しさの主張)。
"何が懐疑家に霊感をあたえるのか"? 独断家に対する"憎悪"──ないしは、ピュロンの場合のごとく、休息の欲求、疲労である。
"なぜ"認識するのか、なぜむしろ欺かれないのか? ひとが意欲したのは、つねに信仰であった、──そして真理では"なかった"……信仰は研究の方法とは"反対の"手段によって
この道をゆけば一切はかならず破滅するとは限らぬでないか。最も理性的な人にとってもまた、時には、自然が、すなわちすべてのものに対する非論理的な根本態度が、必要である。
(ニーチェ『余りに人間的』第1部33)
論理的なものが人間には必要であり、また非論理的なものから多くの善きものが出てくるという認識は、一人の思想家を絶望させるに足るもののひとつである。非論理的なものは、情念や言語や芸術や宗教や、そして一般に生に価値を与えるすべてのもののなかに、極めて密着してひそんでいるので、
人は、これらの美しいものを致命的に傷つけてしまうことなしには、それを取り出すことはできない。人間の性質が、或る純粋に論理的な性質に変えられると信ずることができるのは、ただ余りにも素朴な人々である。しかしもしこの目標に近づく程度の多少というものがあるとすれば、
それでもドイツ哲学の発展と急速な開花は、カントのこの誇りにかかっているのであり、できればもっと誇りをもてるようなものを──いずれにしても「新しい諸能力」を!──発見したいと考えたすべての若い世代の哲学者たちの競争心にかかっているのである。
(ニーチェ『善悪の彼岸』11)
いまや誰もが、かつてカントがドイツの哲学に及ぼした影響から目を逸らそうと、とくにカントがみずからに認めた価値を巧みに迂回しようと、努めているようにみえる。カントは何よりも自分のカテゴリー表を誇りに思っていたし、この表を手にして、「これこそが形而上学の目標としえた営みのうちでも、
もっとも困難な作業だった」と語ったものだった。──この「[目標と] しえた」という言葉の意味をよく理解していただきたい! カントは人間の新しい能力、すなわちアプリオリな総合判断の能力を発見したことを誇りに思っていた。たとえカントがそのことで思い違いをしていたにせよ──