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「先日私はモーツァルトの手紙を読んだが、彼のところへ作曲を送ってきた男爵にあてたもので、文面はこうだったと思う、『あなた方ディレッタントに苦言を申さねばなりますまい。あなた方にはいつも二つの共通点が見られますから。独自の思想をお持ちにならないので、他人の思想を借りて来られるか、
独自の思想をお持ちの場合は、使いこなせないか、そのどちらかです。』すばらしいじゃないか? モーツァルトの音楽について言ったこの偉大な言葉は、他のあらゆる芸術にも通用するのではなかろうか?」
ゲーテはつづけた、「レオナルド・ダ・ヴィンチはこういっているよ、
December 23, 2025 at 3:00 AM
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
(出エジプト記 20:3-5)

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
December 23, 2025 at 1:00 AM
美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。おそらく美はそのどちらでもあった。細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあった。そう思うことで、かつて私を悩ませた金閣の美の不可解は、半ば解けるような気がした。
何故ならその細部の美、その柱、その勾欄、その蔀戸、その板唐戸、その華頭窓、その宝形造の屋蓋、……その法水院、その潮音洞、その究竟頂、その漱清、……その池の投影、その小さな島々、その松、その舟泊りにいたるまでの細部の美を点検すれば、
December 22, 2025 at 11:00 PM
正直な話、どうもわたしには、わが国にもいよいよ国を挙げての「隔絶」の時代がやってきたように思われてならないのである。みんながそれぞれ孤立し、ひとりでお高くとまり、誰もかれもがそれぞれなにか自分だけの独自のもの、新しい前代未聞のことを考え出そうと苦心している。
あらゆる人が、以前は思想においても共通していたものを、一から十まで棚上げにして、自分だけの独自な思想と感情から出発しようとしている。
(ドストエフスキー『作家の日記』1876.3)
December 22, 2025 at 9:00 PM
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、
「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。
(三島由紀夫『劇画における若者論』)
December 22, 2025 at 7:01 PM
二に二を掛ければ四だ。石はすなわち石だ。明日は決闘がある。それは愚かで不合理なことだとか、決闘はもう時代遅れだとか、決闘は一見貴族趣味ではあるが、本質的には酔漢が居酒屋でやるけんかとなんら異なるところはないとか、まあそんなことを君と僕がここでいくら気焔をあげたところで、やっぱり
僕らは思い止まらんだろう、出かけて行って闘るだろう。すなわち我々の推論よりも力強いある力が存在する。我々は常々声を大にして、戦争は追剥だ、蛮行だ、戦慄だ、兄弟殺しだと叫ぶ。我々は失神せずして血を見ることはできない。しかしフランスやドイツが一度でも我々を凌辱したら最後、我々の士気は
December 22, 2025 at 5:00 PM
ああ、なんというすばらしい書物、なんという教訓だろう! 聖書とはなんとすばらしい本だろうか、なんという奇蹟、なんという力が、この本によって人間に与えられたことか! まさに世界と、人間と、人間の性格との彫像にもひとしく、すべてが名を与えられ、永遠にわたって示されているのだ。そして、
どれほど多くの、解明された明白な神秘があることだろうか。神はヨブをふたたび立ち直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供たちを愛している。だが「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、
December 22, 2025 at 3:00 PM
歴史的な事実と自然科学的な事実とは二つのものとなる。後者はいつもいつも繰り返され、前者は決して繰り返されない。後者は真理であり、前者は事実である。そこで「偶然」と「原因」とは、日常の像のなかでは、どんなに相近いものとして現われても、根本的にはまったく異なった世界に属する。
一個の人間の歴史像──したがってその人間自身──を、日常の偶然が決定的に支配すればするほど、その像はますます浅薄になってくる。同様にして、歴史記述が、純粋な事実的関係を確定して、その対象を書き尽くそうとすればするほど、ますます空虚になることは当然である。
December 22, 2025 at 1:00 PM
もし聖書の真実さが、我々に完全に真実が伝えられているかという問題にかかっているなら、福音書の真実さも疑わしくなるだろう。マルコ伝とルカ伝は、直接の観察と体験から書かれたものではなく、後になって口承によって書かれたのだ。最後のヨハネ伝は、まったく年老いてからはじめて書かれたのだ。
にもかかわらず、私は四つの福音都はすべて完全に真実なものだと考えている。それらには、キリストの人格からほとばしり出た崇高さの、そしてかつてこの地上にあらわれた神と同じような神々しい崇高さの反映があるからだ。もし、自分の性質にキリストへ畏敬の念をささげる気持があるかと問われたら、
December 22, 2025 at 11:00 AM
武士道の根本は死ぬことだと見きわめた。生きるか死ぬかしかない場でいち早く死ぬ方をとるだけのことだ。特段、理屈はない。迷いなく進むのである。目的を果たせずに死ぬのは犬死だ、などというのは、上方風の思い上がった武士道であろう。
生きるか死ぬかしかない場で狙いが果たせるように分別することは、不可能だ。自分も人も生きる方がすきだ。往々にして好きな方に理屈が付くものだ。それでもし狙いを外して生き延びたならば、腰抜けである。この境目はあてにならない。一方、狙いを外して死ぬならば、
December 22, 2025 at 9:00 AM
「なんじ東へゆけ、さればわれ西へゆかん」──この言葉の示すような感覚が、親密な交際関係のなかの人間味を示すすぐれた目印である。この感覚がなければ、いかなる友情も、いかなる使徒同士、門弟同士の関係も、いつかは偽善となる。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部231)

共に苦しむことではなく、共によろこぶことが友人をつくる。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』499)

自分のことを全然語らないのはきわめて上品な偽善である。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』504)
December 22, 2025 at 7:00 AM
ぼくの立場はほぼ次のように言うことができます。かつてほとんど他人まかせであった人間であるぼくは、独立、自主、自由への熱望をあらゆる面にわたって持っており、親しい者たちに囲まれて目移りばかりさせられているくらいなら、目隠しをつけてわが道をその果てまで行き詰めた方がましなのです。
だからぼくの方から両親に向かって言うにせよ、両親の方からぼくに言うにせよ、あらゆる言葉がいとも容易にぼくの足元に飛んでくる丸太になるのです。ぼくが自分で手に入れたり戦い取ったのではない結びつきは、ことごとく、ぼくの自我に背きこそすれ、無価値であり、ぼくの歩みを妨げるのです。
December 22, 2025 at 5:00 AM
「でも、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合、どうすればよろしいのでしょうか? そんなときは絶望するほかないのですか?」
「いいや、あなたがそれを嘆いていることだけで十分なのです。ご自分にできることをなさい、そうすれば報われるのです。あなたはもう、ずいぶん多くのことを
やりとげていますよ、なぜってそれほど深く真剣に自覚することができたのですからね! かりにあなたが今それほど真剣にわたしと話していたのも、自分の正直さを賞めてもらいたい一心からだけだとしたら、そのときはもちろん、実行的な愛の偉業という面では、何物にも到達できないでしょうがの。
December 22, 2025 at 3:00 AM
ある浮浪人が自伝を書くとしたら、危険なのは、次のうちのどれかであろう。
①自分の本性を否定する。
②それを誇りに思う理由を見出す。
③自分にそのような本性があるということを、まるで重要視していないかのように振舞う。
①の場合、彼は嘘つきだ。
②の場合、彼は自然の貴族の特徴──つまり明るい悪徳であり、不自由な体が自然の優雅さを持ち得ないのと同様に、彼が実際には持ち得ないプライド──を真似る。
③の場合、彼はいわば社会民主主義の身振りで、荒々しい身体の特質より文化を優先させるが、これも欺瞞である。
December 22, 2025 at 1:00 AM
神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる。神はまたあなたを悩みから、束縛のない広い所に誘い出された。そしてあなたの食卓に置かれた物はすべて肥えた物であった。
しかしあなたは悪人のうくべきさばきをおのれに満たし、さばきと公義はあなたを捕えている。あなたは怒りに誘われて、あざけりに陥らぬように心せよ。あがないしろの大いなるがために、おのれを誤るな。
(ヨブ記 36:15-18)
December 21, 2025 at 11:00 PM
よいかな、神はあなたにも忘れずに知恵を授けなすった。もしあなたが心のなかで、《自分は自分の行為に対して責任を負うているのか、負うていないのか》という質問だけでも発することができれば、すなわちそれであなたはすでに必ず責任を負うておられる。
もっとも、この……あなたの過失について申すならば、同じ過失を犯す者は多いが、彼らはそれを若き日の避けえぬ過失とさえ考えて、おのれの良心を安んじ平穏に暮らしておる。なかにはすでに墓の匂いを放ちながら、同じ過失を犯してなお慰めやたわむれを味わう老人もおりますのじゃ。
December 21, 2025 at 9:00 PM
精神の産物、著作の価値を評価するのに、その書き手が「何について」「何を」考えたかを知る必要はなく(そうしたら全作品を通読せねばなるまい)、まずは「どのように」考えたかを知れば、じゅうぶんだ。私は著者の作品を二、三ページ読めば、自分にとってどのくらいプラスになるか、およそ見当がつく。
凡庸な物書きはみな、持ち前のありのままの文体を偽装しようとする。そのためにまず素朴さを断念せざるをえず、天衣無縫であることは卓越した精神の持ち主、自分というものを自覚し、確信をもってふるまう人物の特権になる。凡庸な脳みその持ち主は考えたことをそのまま書く決心がつかない。それでも、
December 21, 2025 at 7:00 PM
「おまけに、人間というものは、自分でもそれと気づかぬうちに、つたない創作におちこんでしまっているものだ。子供のときからもう詩をつくりはじめ、それをつづけていって、青年になると、自分もいっぱしのものが書けそうだと思う。やっと大人になって、
世の中にあるすぐれた作品が洞察できるようになると、まちがった、あまりにも不十分だった努力のおかげで失ってしまった長い年月にあらためて驚くことになる。」
「それどころか、完成されたものも知らず、自分の不十分さに気づくこともなく、死ぬまで生半可なものをつくっている人が大勢いるのだ。」
December 21, 2025 at 5:00 PM
「それから何年かの後、私〔ウィトゲンシュタイン〕はたまたまフロイトのある著書を読んで、びっくりした。そこには言うべきことをもっている人物がいたのである。」私〔ラッシュ・リース〕はこれが1919年のちょっと後だったと思う。そして残る生涯の間、フロイトは彼が読むに価すると考えた数少ない
著者の一人であった。彼は自分のことを──以下の議論の合い間に──「フロイトの弟子」とか「フロイトの追従者」とか言っていた。彼はその著作の中の観察や意見ゆえにフロイトを賞讃した。彼の見解ではフロイトが間違っているような場合ですら、「言うべきことをもっている」がゆえに。他方では、
December 21, 2025 at 3:00 PM
自分自身について自分に嘘をつくこと、自分の意志の状態における見せかけについて自分を欺くことは、スタイルに有害な影響を及ぼすに違いない。なぜなら、その結果、スタイルにおいて何が本物で何が偽物なのか分からなくなるから。このことによって、マーラーのスタイルが偽りであることを説明できる。
もし私が自分自身に演技をしたら(そのような人が書くように私は書いていると思う)、スタイルが表現するのはそのような類のことになってしまう。そうすると、そのスタイルは、私自身のものではありえない。もし自分が何であるかを知ろうとしないなら、あなたの書くものは欺瞞の一形態である。
December 21, 2025 at 1:00 PM
私たちの考察は科学的考察であってはならない、ということは正しかった。先入見に反してあれやこれやを考えることができる、という経験は私たちの興味外のことだった。(思考の力学的な理解。)それゆえ私たちには、一切の理論を立てることが許されない。いかなる仮説も考察の中に入り込んではならない。
一切の説明が排除され、後には記述だけが残らなければならない。そしてこの記述は、その光、つまり目的を、哲学的諸問題から受け取るのである。これらの問題は確かに経験的なものではない。これらは、私たちの言語の働きを洞察することによって解消されるのであり、その洞察は言語の働きを
December 21, 2025 at 11:00 AM
聖書について考察するには、二つの立場がある。一つは一種の原始宗教の、つまり神に端を発する純粋な自然と理性との立場だ。この立場は神性にめぐまれた人達が存在するかぎり、永遠に不変であり、いつまでも持続し、重んじられるだろう。だが、それは選ばれた人達だけのものであって、一般化されるには
あまりに高度で、あまりに高貴すぎる。もう一つ、教会の立場がある。これは遥かに人間的だ。この立場は弱く、変化しやすく、そして実際に変化しつつある。だが、これも弱い人間が存在するかぎり永遠に変化しながらも持続していくだろう。くもりない神の啓示の光は、あまりに純粋で目もくらむほどなので
December 21, 2025 at 9:00 AM
ああ、愛に満ちた愚か者、ツァラトゥストラよ。信じやすくよろこびやすいお人好しめ。お前はいつもそうだった。どんな恐ろしいものにも、打ち解けて近づいて行った。どんな化け物も撫でようとした。たった一度のあたたかい息、ほんの少しの前足のやわらかな毛──それだけ愛し、誘いかける気になった。
愛は孤独の極みにある者にとって危険だ。生きてさえいればどんなものにでもそそぐ愛は。そうだ、このわたしの愚かさ、謙虚な愛は笑うべきものだ──。
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部 漂泊者)
December 21, 2025 at 7:00 AM
帝国主義は純然たる文明である。西洋の運命は、取り消し難くもこの現象形態をとる。文化の人間はその力を内部に向け、文明の人間は外部に向ける。そこで自分はセシル・ローズを新しい時代の第一人者とする。彼は遠い未来、西洋、ドイツの未来の政治様式を代表している。「膨張こそすべてである」という
彼のナポレオン的な語句は、成熟したどの文明にも特有な傾向を言い表している。これはローマ人、アラピア人、中国人にも当てはまる。ここには選択がない。ここでは一個人とかまた全階級や全国民の意識的意志の決定する余地はない。拡張的傾向は宿命であり、憑かれた、巨大な何ものかであって、
December 21, 2025 at 5:00 AM
私がキリスト教へ導かれたのは、神学的研究でも歴史的研究でもなく、五十歳の時、われとは何ぞ、わが生の意義は那辺にありやと言うことについて自ら訊ね、また周囲のあらゆる賢人達に訊ねて、汝は原子の偶然な結合であるという答えを得たことによってである。
(トルストイ『要約福音書』)

私の身体、この草、この昆虫には物理的、化学的および生理学的法則に従って物質の変化が起きる、と私はかつてよくいったものである。そして、その線に沿って最大の思索の努力をしたにもかかわらず、人生の意味、私の衝動の意味および私の熱望の意味が私に示されなかったことに驚いた。
(トルストイ)
December 21, 2025 at 3:00 AM