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ニーチェ(374),ウィトゲンシュタイン(302),三島由紀夫(237),シュペングラー(200),ゲーテ(177),ドストエフスキー(112),カフカ(105),聖書(98),カント(97),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(39),その他(355)

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戦後平和日本の安寧になれて、国民精神は弛緩し、一方、偏向教育によつてイデオロギッシュな非武装平和論を叩き込まれた青年たちは、ひたすら祖国の問題から逃避して遊惰な自己満足に聡る者、勉学にはいそしむが政治的無関心の殻にとぢこもる者、
「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、ほぼ三種類に分けられるにいたりました。しかし一九六〇年の安保闘争は、青年層の一部に「日本はこれでいいのか」といふ深刻な反省をもたらし、学校で教へてくれなかつた日本の歴史と伝統に自ら着目して、
December 24, 2025 at 7:00 AM
二人でいると、彼は一人のときよりも孤独に感じる。誰かと二人でいると、この相手が彼につかみかかり、彼はこの相手になすすべもなく引き渡されている。一人でいると、全人類が彼につかみかかりはするが、差し伸ばされた無数の腕がこんぐらかって、誰も彼には手が届かない。
(カフカ 日記 1922.5.19)

ずいぶん遠くまで歩きました。五時間ほど、ひとりで。それでも孤独さが足りない。まったく人通りのない谷間なのですが、それでもさびしさが足りない。
(カフカ フェリーツェへの手紙)

まだ生れてもいないのに、もう街を歩きまわり、人びとと話をさせられる破目になること。
(カフカ 日記 1922.3.15)
December 24, 2025 at 5:00 AM
低級種(「畜群」、「大衆」、「社会」)が謙譲を忘れて、おのれたちの欲求を宇宙的価値や形而上学的価値にまでふくらましあげる。このことによって全生存が卑俗化される。つまり大衆が支配するかぎり、彼らは例外者を圧制し、そのため後者は自信を失ってニヒリストとなる。
高級典型を考えだすすべての試みが失敗する。
その成果は、高級典型に対する反抗。
すべての高級典型の衰退と不安定。天才に対する闘争(「民衆文学」その他)。魂の高さをはかる尺度としての低劣な者や苦悩する者への同情。
(ニーチェ『権力への意志』27)
December 24, 2025 at 3:00 AM
ショーペンハウアーが彼の哲学から何を得たのか、私ははっきり理解していると思います。ショーペンハウアーを読むと、私はすぐに底が見えるような気がします。カントやバークリーが深いという意味では、彼は深くはありません。
(ウィトゲンシュタイン ドゥルーリーとの会話 1948秋)

ドゥルーリー「私はプラトンの『パルメニデス』を読もうとしましたが、さっぱりわかりませんでした」
ウィトゲンシュタイン「その対話篇は、プラトンの著作の中で最も深いと思います」
(ウィトゲンシュタイン ドゥルーリーとの会話 1948秋)
December 24, 2025 at 1:00 AM
理由のある悲しみ、この理由にもたれかかっている。たえず危険。出口なし。初めての時はいかに容易だったことだろう、そしていまや、いかに難渋を極めているか。暴君がなんと絶望的に僕をみつめていることだろう。「お前はおれをどこへ連れて行くのだ?」あらゆる手立てを尽してもなお平静は得られず、
午後には、朝の希望は葬り去られている。こんな生活と折合いをつけていくことは不可能だ。そんなことができた人間はいまだかつて存在しなかったはずだ。他の人ならこの限界まで来たら──ここまで来たらしいということが、すでに惨憺たることなのだ──背を返してしまうだろう。僕にはそれができない。
December 23, 2025 at 11:00 PM
悠一は店へ入った瞬間から、この四、五人が今日の日曜をどこへ行く宛もなしに集まっているのを感じていた。男色家の日曜日はみじめである。その日一日はかれらの領分ではない昼の世界が、完全に主権を振っているのをかれらは感じる。
劇場へ行っても、喫茶店へ行っても、動物園へ行っても、
遊園地へ行っても、町を歩いても、よしんば郊外へ出掛けても、いたるところで多数決原理が誇りかに闊歩していた。老夫婦、中年の夫婦、若夫婦、恋人同士、家族連れ、子供、子供、子供、子供、子供、その上呪うべき乳母車というやつから成る行列である。歓呼しながら進む行進である。
December 23, 2025 at 9:00 PM
"装飾"(付属物)と呼ばれるものは、対象を構成する要素として内的に付加されるのではなく、ただ外的につけ加えられることによって、趣味の適意を増大させる。ただしこれらのものも、形式を通じて趣味の適意を高めるのである。たとえば絵画の額縁、彫刻が身にまとう衣装、壮麗な建築を囲む柱廊などが、
こうした付属物と呼ばれる。たとえば絵画の額縁が黄金で作られている場合のように、装飾がそれ自体で美しい形式を持たずに、ただその魅力によって絵画の美しさにたいする賛同を促すものであれば、その場合にはその装飾は"虚飾"と呼ばれ、真の美を損ねるものとなる。
(カント『判断力批判』116)
December 23, 2025 at 7:00 PM
知識は徳である──このことを孔子、ブッダ、それからソクラテスは信じていた。知識は力である──このことはヨーロッパ・アメリカ文明の内部でだけ、ひとつの意味を持つ。この自然への還帰は、実際的な知性と自然とのあいだにあるすべての力を除外することを意味する。ほかの何処ででも、
唯物論は上べだけ単純な単位を、直観的にしても概念的にしても、確定することで満足している。その単位の因果的な遊戯は、秘密の残り物を余すところなくすっかり説明し、そして超自然的なことを無知のせいにして満足している。しかしエネルギーと物質量についての大きな知的神話は同時にひとつの巨大な
December 23, 2025 at 5:01 PM
えてして哲学者は、不器用なマネージャーになりがちだ。自分では仕事をせず、ただ部下が仕事をきちんとやっているかどうかを見張っているだけでいいのに、部下から仕事を取り上げ、ある日、気がつくと、部下たちの仕事の山にうずもれてしまっているのである。
部下たちのほうは批判的な目で、それを傍観しているのだが。
(ヴィトゲンシュタイン 反哲学的断章 1931.10.14)
December 23, 2025 at 3:00 PM
橇を走らせている間の、粉々に砕ける力。人は一つの人生を、体操選手が逆立ちをするようなふうに、自分で作り上げることはできない。
(カフカ 日記 1922.1.27)

橇滑りをしているときの不安。つるつる滑る雪の上を歩くことの心もとなさ。今日読んだある短篇小説が、いつも身近にありながら長いこと気にとめないでいたその考えを、ふたたび浮かび上らせた。つまり、ぼくの没落の原因は、単なる気違いじみた利己心や自分のことでの心配にすぎず、
December 23, 2025 at 1:00 PM
「強制でどんな信仰が生れるというんだい? おまけに、信仰にはどんな証拠も役に立たないんだ、特に物的証拠なんぞね。トマスが信仰を持ったのは、復活したキリストを見たからじゃなく、それ以前から信仰を持ちたいと願っていたからなんだよ。たとえば、降神術者だってそうだ……
僕はあの連中が大好きでね……だってさ、あの連中は悪魔があの世から角を見せてくれるから、自分たちが信仰にとって役立つ存在だと思っているんだからね。『これは、あの世が存在することの、いわば物的証拠にほかならない』だとさ。あの世と物的証拠、やれやれだ! それに結局、悪魔の存在が
December 23, 2025 at 11:00 AM
自分には趣味しかないのか。それとも独創性もあるのか。私には判断がつかない。趣味のほうは、はっきり姿が見える。独創性のほうは、姿が見えないか、まるでぼんやりしている。もしかしたらそうにちがいない。
われわれに見えるのは、自分がなにをもっているかだけであって、自分がなにであるかは見えないのだ。ウソをつかなければ、それだけで独創的であると言える。望ましい独創性とは、芸当のようなものではないわけだし、どんなに特徴のある個性でも、それを独創性とは呼べないわけだから。
December 23, 2025 at 9:00 AM
子供の内部生命がしばしば近親の死に際して目覚めるのは、この意味ある深い一致があるからである。子供はまったく物質となり、まったく空間となったその生命のない死骸を"不意に"理解し、"同時に"自己を未知の拡げられた世界における個々の"生物"と感ずる。
「五歳の子供と自分との間には、たった一歩の差があるだけだ。ところが生まれたばかりの子供と五歳の子供との間には、恐ろしい隔たりがある」といつかトルストイがいった。現存在のこの決定的な瞬間において人間は初めて人間となり、そうして宇宙における自己の大きな孤独を知る。ここにおいて
December 23, 2025 at 7:00 AM
おそらく誰にもあるでしょう、つけられた傷を何度も自分でなぞることでより深く傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いているということが。
(宇佐見りん『かか』)

俗に、脛に傷持つ身、という言葉もあるようですが、その傷は、自分の赤ん坊の時から、自然に片方の脛にあらわれて、長ずるに及んで治癒するどころか、いよいよ深くなるばかりで、骨にまで達し、夜々の痛苦は千変万化の地獄とは言いながら、しかし、(これは、たいへん奇妙な言い方ですけど)その傷は、
December 23, 2025 at 5:01 AM
「先日私はモーツァルトの手紙を読んだが、彼のところへ作曲を送ってきた男爵にあてたもので、文面はこうだったと思う、『あなた方ディレッタントに苦言を申さねばなりますまい。あなた方にはいつも二つの共通点が見られますから。独自の思想をお持ちにならないので、他人の思想を借りて来られるか、
独自の思想をお持ちの場合は、使いこなせないか、そのどちらかです。』すばらしいじゃないか? モーツァルトの音楽について言ったこの偉大な言葉は、他のあらゆる芸術にも通用するのではなかろうか?」
ゲーテはつづけた、「レオナルド・ダ・ヴィンチはこういっているよ、
December 23, 2025 at 3:00 AM
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
(出エジプト記 20:3-5)

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
December 23, 2025 at 1:00 AM
美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。おそらく美はそのどちらでもあった。細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあった。そう思うことで、かつて私を悩ませた金閣の美の不可解は、半ば解けるような気がした。
何故ならその細部の美、その柱、その勾欄、その蔀戸、その板唐戸、その華頭窓、その宝形造の屋蓋、……その法水院、その潮音洞、その究竟頂、その漱清、……その池の投影、その小さな島々、その松、その舟泊りにいたるまでの細部の美を点検すれば、
December 22, 2025 at 11:00 PM
正直な話、どうもわたしには、わが国にもいよいよ国を挙げての「隔絶」の時代がやってきたように思われてならないのである。みんながそれぞれ孤立し、ひとりでお高くとまり、誰もかれもがそれぞれなにか自分だけの独自のもの、新しい前代未聞のことを考え出そうと苦心している。
あらゆる人が、以前は思想においても共通していたものを、一から十まで棚上げにして、自分だけの独自な思想と感情から出発しようとしている。
(ドストエフスキー『作家の日記』1876.3)
December 22, 2025 at 9:00 PM
劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、
「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。
(三島由紀夫『劇画における若者論』)
December 22, 2025 at 7:01 PM
二に二を掛ければ四だ。石はすなわち石だ。明日は決闘がある。それは愚かで不合理なことだとか、決闘はもう時代遅れだとか、決闘は一見貴族趣味ではあるが、本質的には酔漢が居酒屋でやるけんかとなんら異なるところはないとか、まあそんなことを君と僕がここでいくら気焔をあげたところで、やっぱり
僕らは思い止まらんだろう、出かけて行って闘るだろう。すなわち我々の推論よりも力強いある力が存在する。我々は常々声を大にして、戦争は追剥だ、蛮行だ、戦慄だ、兄弟殺しだと叫ぶ。我々は失神せずして血を見ることはできない。しかしフランスやドイツが一度でも我々を凌辱したら最後、我々の士気は
December 22, 2025 at 5:00 PM
ああ、なんというすばらしい書物、なんという教訓だろう! 聖書とはなんとすばらしい本だろうか、なんという奇蹟、なんという力が、この本によって人間に与えられたことか! まさに世界と、人間と、人間の性格との彫像にもひとしく、すべてが名を与えられ、永遠にわたって示されているのだ。そして、
どれほど多くの、解明された明白な神秘があることだろうか。神はヨブをふたたび立ち直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供たちを愛している。だが「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、
December 22, 2025 at 3:00 PM
歴史的な事実と自然科学的な事実とは二つのものとなる。後者はいつもいつも繰り返され、前者は決して繰り返されない。後者は真理であり、前者は事実である。そこで「偶然」と「原因」とは、日常の像のなかでは、どんなに相近いものとして現われても、根本的にはまったく異なった世界に属する。
一個の人間の歴史像──したがってその人間自身──を、日常の偶然が決定的に支配すればするほど、その像はますます浅薄になってくる。同様にして、歴史記述が、純粋な事実的関係を確定して、その対象を書き尽くそうとすればするほど、ますます空虚になることは当然である。
December 22, 2025 at 1:00 PM
もし聖書の真実さが、我々に完全に真実が伝えられているかという問題にかかっているなら、福音書の真実さも疑わしくなるだろう。マルコ伝とルカ伝は、直接の観察と体験から書かれたものではなく、後になって口承によって書かれたのだ。最後のヨハネ伝は、まったく年老いてからはじめて書かれたのだ。
にもかかわらず、私は四つの福音都はすべて完全に真実なものだと考えている。それらには、キリストの人格からほとばしり出た崇高さの、そしてかつてこの地上にあらわれた神と同じような神々しい崇高さの反映があるからだ。もし、自分の性質にキリストへ畏敬の念をささげる気持があるかと問われたら、
December 22, 2025 at 11:00 AM
武士道の根本は死ぬことだと見きわめた。生きるか死ぬかしかない場でいち早く死ぬ方をとるだけのことだ。特段、理屈はない。迷いなく進むのである。目的を果たせずに死ぬのは犬死だ、などというのは、上方風の思い上がった武士道であろう。
生きるか死ぬかしかない場で狙いが果たせるように分別することは、不可能だ。自分も人も生きる方がすきだ。往々にして好きな方に理屈が付くものだ。それでもし狙いを外して生き延びたならば、腰抜けである。この境目はあてにならない。一方、狙いを外して死ぬならば、
December 22, 2025 at 9:00 AM
「なんじ東へゆけ、さればわれ西へゆかん」──この言葉の示すような感覚が、親密な交際関係のなかの人間味を示すすぐれた目印である。この感覚がなければ、いかなる友情も、いかなる使徒同士、門弟同士の関係も、いつかは偽善となる。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的2』第1部231)

共に苦しむことではなく、共によろこぶことが友人をつくる。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』499)

自分のことを全然語らないのはきわめて上品な偽善である。
(ニーチェ『人間的、あまりに人間的1』504)
December 22, 2025 at 7:00 AM