飯塚
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予感派 おみしぇ https://pandemonica.booth.pm
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こりずに春からあたためはじめている自ゲームのふんいきです
私はこういう話をしようと思っている/こういう物語を実は考えている、という創作術の水準が物語本編と話法としてけっして切り離されない物語文ということ
船長の語る枠物語のパートが少しおもしろい。枠物語でありながら、その物語をどうするつもりか考えている船長自身の思案(「と考えます、」「説明するのです」「入るのです」)が、物語文の叙述を左右してもいる。

 それはこんな話なのです。
 或る海岸につき出た岬の、丘のふもとにある虫の世界の出来事です。私は先ず其処で、蝶や小鳥等の、昼の光に包まれた華やかな情景を描き出したいと考えます。そして、その後で、その裡面に小さく閉じ込められた蛾の一族について説明するのです。(…)
 そんな具合に説明した後で、突然生れて来た不幸な白い蛾の話に入るのです。/安部公房「白い蛾」
これはウチがゲンムつくてるときオブジェクトの透明状態のスイッチいろいろ入れ替えて遊んでるせいもあるかもにゃ・・・・ 自分に反論したくもにゃってくる
プレイヤーキャラクターが透明状態ONのとき、壁はすり抜けて歩行できる。他方で、壁が透明状態ONのとき、プレイヤーキャラクターはやはりすり抜けて歩行できる。この、まったく主客が逆のコリジョン状態が、結局は操作感覚の上ではそう遠くないものだというのがひとつの直観である。自分が透明であることと壁が透明であることとを、運動感覚として短絡できてしまうことは、やはり自分の体に重点を置いたものでありやすやすと一般化できそうにないが、当たり判定の美学を練る際には手掛かりになりえるのではにゃいだろうか
「絵画をプレイする」ということでウチが考えてるのは、それをゲーム画面と思えばどんな絵画も簡易的にエッシャー化できるんぢゃないかという発想かもしれにゃいな。絵画の画面に対して、歩き回るプレイヤーキャラクターを仮構してみる。すると、どこが通れそうで、どこが突き当たりかというコリジョン判定が立ち上がってくる(この判定は、絵画が表出している空間性や遠近法から導出できるシステムとはべつでありうる。絵画では崖が描かれてるけど、プレイヤーキャラクターを操作するつもりで見るとわりと渡れそうだ──周囲の色配置なども関係して──となったりするだろう、ということ)。操作キャラは絵画を不可能な歩みとして調節しなおす
まあエッシャーはゲンムの空間論理(そう見えるもの、の優先権)に関係あると思うけどね
比較的言及が少なそうな点をとらえればUNDERTALE/DELTARUNEでは「〇〇かと思ったがよく見ると××だ」式のギャグがけっこうしつこく見受けられると思う(ドアかと思ったら壁に描かれた絵だ、にゃど) 「アートスタイルの慣習からそう見えるもの」と「ゲーム空間にとっては現にそうであるもの」を接続している取り繕いの箇所を突くワケですが、それは単体で見るととくにおもしろくはないけれど、デジタルゲームの表象論理を考えたいときには使える資料が豊富に埋蔵されてはいる というのとあんま関係にゃく明日エッシャー本を借りれそうにゃので楽しみ・・
www.msz.co.jp/book/detail/...
エッシャー完全解読 | なぜ不可能が可能に見えるのか | みすず書房
近藤滋著。エッシャーがだまし絵に密かにちりばめ、決して語らなかった視覚のトリックを100点超の図版で読み解く。謎解きの楽しさに満ちた一冊。
www.msz.co.jp
お絵描きのお題がほしいーッ だがマシュマロはにゃんかやりたくない
まあそういう事例も含めていくと、まったくとりとめなくなりがちにゃので(それでもいいンですけど)、どこかでこうした「会話状態の誕生」の輪郭みたいなものをいったん提示してみたくはありますにぇ
ウチが昔かいた例でいうと、有線からべつべつの女性歌手のポップソングが続けて2曲流れてきたときコールアンドレスポンス、呼応しあっているように聞こえた、というのがありますけど、それも「会話状況」をほかでもなくリスナーとしての自分が作りだしているのでもある(自分が能動的にそう聴こうとしていると意識し、かつどうしてもこのふたつの曲は呼応してるようにしか聞こえないという受動的な事件の観察者として自分を置いてもいる
レーモン・クノーがかつて提起した《状況の韻》(異なるキャラクターがべつべつの場所で、同じようなシチュエーションに出くわすこと、またそれらを並列的に叙述してみせること)とか、ある種の叙情性やドラマ性を喚起しようとしていろんなマンガや小説で今でも行われてるワケですけど、そういう手法も、物語レベルでなく紙面レベルにおいて準・会話状況を作りだしやすい、とは言えるかもしンにゃい
ああそういうのもありますよねェ ・・・あまり条件にこだわらなければ大量に事例を収集できそうですよね、会話になっているように感じられるもの ハイパーインフレーション4巻のコマを介した顔の向きあい↓とかににゃると、エンターテイメントの精錬された手練手管というかケレンみを楽しんでもらおうという意図が強くでてくると思いますが、より原理論的には〈現実〉論序説で鈴木雅雄があらためて論じていた、ページの上でのキャラクターの顔の向かい合わせとかも視野に入ってきそうではあります
Reposted by 飯塚
通信で繋がっているようには思えない他人の台詞を引き継いで次の話者が話し出すやつ、「ジャイアントロボ THE ANIMATION -地球が静止する日」や「機動武闘伝Gガンダム」などの今川作品で多用される印象だけど、あれは演劇とかに由来があるのかしら。
手づかみの言い方で眼に入るもの・そこにあるものをかきこんでいく風物描写だけ見ると、意外と天沢退二郎の慌ただしさとガロの感性を繋ぐようにも思えてはくる
債務者の「ので、」だよにゃ。もうここまで長いセンテンスをかいてしまった(資産をつぎこんでしまった)から、後に引けない、にゃにか宝石のようなフレーズ、衝撃的な描写、美しい神経を構成して読者の襟を正したい、しかしうまくいかない、もともと言いたいことがべつにない(これはべつに悪くない)、だから読点を費やしてもっと次のセンテンスではうまくやるンだ(儲ける)、っていう心性の果ての「ので、」だよ
ドヤ街のユイスマンス?という調子だ
「たまらぬので、」のよくなさ。モダニズムの時期ならともかく1947年でこの「ので、」はひどいね!

 幕が上がるとターッとかけ出してゆく松竹歌劇の踊子なる私の妻は、植物のようにいよいよやせるのであったし、私も亦何物かにつかれたように、蠱惑の背後にでてやろうとして、いよいよ街を歩きまわるのであったが、この現象するロマネスクなすじがきを越えて既に何物かの中へ出ている、これはニヒルなんぞといった生半可なものであってはたまらぬので、このつめたい風のすーすーと吹くような世界は──時間などというものはもはや沼の底にたたっこんでひくひくうごめいているにすぎないのだが、(…)/椿實「ある霊魂の肖像」
結婚指輪物語という題のフリーゲームみ・・
フラワー(本物)とフラワー(本物)
異なる二者の、実は直接つながってはいないかもしれないテキストをあたかも会話に「している」のはそれを読んでいる私(という欲望)、という方向もでてきますにぇ、シュルレアリスム的な考えだと・・そっちもいいかもしれにゃいな
Reposted by 飯塚
ある種の麻雀漫画においてはモノローグや「心の声」がほとんどキャラクター同士の会話と同じように扱われており、私自身の興味に引きつけて言えび、書簡集を読んでいると、それらがまるで実際の会話のように感じられる、という事態を思い出させる。
Reposted by 飯塚
お店のおっちゃんに「サンキュー」いうて渡されました。ほとんと海外のお客さんだからもはやぜんぶサンキューになってる模様。

ゆうて、カタカナ語のサンキューなので通じてるのかは判らないところ。そのうちカタカナ英語がピジン・イングリッシュみたいにならんかな。あるいはもうなってるのか。

レジのおばちゃん、人力車の兄ちゃんもこれで話してるよ。
というふうに考えるとおもしろいかなと思ったがどうか テレパシーとメディア横断性はもうちょっと育ててみるかにゃ・・
やや身もふたもない考えでもあるが、たとえば小説でひとりごとがクリアに伝達され会話になっていくのは、ひとりごとの聞き手がクリアに理解することができたからであろう。そして、聞き手がなぜクリアに理解できたかといえば、その会話過程をかこうとしていた作者が、ひとりごとを「クリアにつぶやき」、またそれを「クリアに聞き取れる」立場にいるからでもあるろう。それを逆流させると、「キャラクターーにとって」作者とは、聞き取れないはずの他者のひとりごとさえクリアに聞き取るためのテレパシーを構成する条件や道具や媒介のようなものでもあるだろう。
フィクションにおいて、声にだされたひとりごとをとらえて通常の会話に制作されなおすことはテレパシーの問題と共通項がある。テレパシーはおそらく、透明性からだけではなく、マルチメディアという問題(音声を書き文字として、感情をテキストとして、「台詞」を「文字」として解読する、という風に)から接近するルートがあり、そこにふれる。今その準備がないのでこのようにかきとめておくが