思索マン
思索マン
@turusiyaki.bsky.social
在りたいと成りたいは違う。
在りたい、ではなく成りたい方の自分。普段の自分とは違う自分を出す場としてここを使いたい。
偏見

他者への決めつけとして使われる言葉。
では、「自分はこういう人間だ」という認識はどうだろう。
それもまた、過去の自分が今の自分に押しつけた偏見なのかもしれない。
自己理解と自己への偏見。その境界線は、どこにあるんだろう。

#記録 #日記
November 13, 2025 at 3:54 PM
街を歩いていて、ふとその場所の記憶が蘇った。
建物は消えても、土地には人々の営みが刻まれている。

「記憶の地層」についてエッセイを書きました。

記憶の発掘

note.com/monoomoi/n/n...

#エッセイ #note
記憶の発掘現場──パチンコ店の跡地で|なんてことない事を長々語るマン
散歩をしていると、街の一角にぽっかりと空いた空間があった。駐車場の跡地みたいな平たい土地に、模様の描かれた床が段になって残っている。 何の施設だったのだろうと思って近づいてみると、不意に記憶が蘇った。パチンコ店だ。父を迎えに一度だけ訪れたことがある。建物はもうないのに、なぜこんなにはっきりと思い出すんだろう。 建物が消えても残る何かが、土地にはあるのかもしれない。 床の亀裂から雑草が顔を出し...
note.com
September 17, 2025 at 1:16 PM
深夜の洗面所に緑色の明かりが小さく灯っている。充電している電気シェーバーのものだ。
蛍の光のようにも見えるが、はっきりとしたその緑は人工的な光だ。 ジーっという音が聞こえる。シェーバーが発しているのか、それともアダプターからか。
September 3, 2025 at 4:09 PM
空に向かって伸びる、大きな階段があった。
高台にできる分譲住宅のためらしいそれは、まだ何も建っていない頃、ただ何もない空間に続いていた。
その行き先のない姿が、やけに神秘的に見えた。
少し前から家が建ち始めた。 そこにあるのは、もうただの階段でしかない。
機能性は、神秘性から遠い。
August 9, 2025 at 3:56 PM
葉の一部が赤く染まっている木を散歩中に見かけた。
その部分だけが日差しにさらされていたが、それが原因かは葉に聞いてみなければわからない。
今日も太陽は強く照っている。 葉も人も、光にさらされるだけが幸せの形じゃない。
August 7, 2025 at 4:08 PM
道を逸れるのが好きだ。
行き止まりと分かっている道に入ったり、
畑横の小道をあえて進んだりする。

まっすぐ生きることから逃げ続けている。
それが綻びを生んでいる。

だから、歩くときくらいは
逸れること、逃げることを許容したい。
August 2, 2025 at 12:09 PM
夏が強まるにつれ、暑さの中に爽やかなものを感じるようになる。
強い日差しに照らされた草はとても美しい。緑が透き通って見える。
夏の草は香りも強い。昔はそれが苦手だったが、今はあえて鼻を近付けてしまう。
好きだと思えることが増えると、辛くとも暑さを不快とは感じなくなるのがおもしろい。
July 26, 2025 at 10:52 AM
大通りから逸れて川へと続く砂利道へ。
磯臭い川の周りには日陰もなく、誰もいない。
ちょっとした木が生えてるだけなのに、妙に隔たりを感じる。
なぜかマウスウォッシュのボトルが落ちていて、その横には干からびたミミズが転がっていた。
異界に迷い込んだような感覚がした。
July 25, 2025 at 9:37 AM
「このまま明日がこなければいいのに」と言葉にするのが別れを惜しむ恋人たちなのか、それとも、生きることが苦しみだと思う人なのかでその「意味」は大きく変わるだろう。
言葉に意味ごとで変わる色を割り振ったら、どんな色彩になるのか。
明るい色と暗い色。どちらが多いのだろう。
July 21, 2025 at 3:18 PM
綺麗な月を形に残したくて、スマホのカメラを起動した。
くっきりと美しい輪郭をした間近に迫るような月は確かに目に映っている。
だが、スマホに表示されている月は遥か遠くでぼんやりと野暮ったく光るだけだ。
目では近く美しく感じるが実際は遠く、それほど美しくはない。
なんだか人生のようだ。
July 10, 2025 at 3:56 PM
仕事で長い説明を受けたのに内容のほとんどを忘れてしまった。なぜこうも記憶に残らないのか考えると、フレンドリーな同僚の引き継ぎ方法を思い出した。彼は「シンプルに、けれど気持ちを乗せて」伝えていた。必要なことはしっかり、補足は抽象的に、そして本筋からズレない会話の橋渡し。忙しく働く中で情報過多は「脳もたれ」を起こす。気合いで全部覚えようとするより、シンプルなコミュニケーションが効果的。当たり前のことなのに、忙しい日常ではそれすら見失ってしまうものだ。
May 10, 2025 at 3:57 PM
信号待ちをしている時。
電柱の下から生えた小さな花をおばあさんが愛おしそうに眺めていた。
「強いねぇ。こんなところでこんなにきれいに咲いてねぇ」
僕に話しかけているのか、ひとりごとか。あるいは、花に向けての言葉かもしれない。
「強いねぇ。綺麗だねぇ」
優しい声だ。その声が妙に染みる。
信号が青に変わる。僕はまた歩き出す。
少しだけ、現実に戻ってきた感覚がある。
生きようと思った。
なぜだかはわからない。ただ、考えるのはやめようと思った。
生きよう。
それだけでいい。
March 26, 2025 at 4:14 PM
駅、東口にて同志を思う
March 3, 2025 at 4:47 PM
生きているだけで恵まれているのかもしれないけれど、ただ生きているだけでなぜこんなに大変なのかと考えてしまうこともある。
生きるということは単純ではない。生きているから幸福なのではなくて、生きていることに「意味」を感じているから幸福と思えるのではないかと感じる。
贅沢な悩みだとは思うが。
February 25, 2025 at 3:56 PM
昼時の図書館へ本を読むためではなく、空間を味わいに行く。本棚や窓外の景色を眺め、深呼吸をしながら書物の香りに包まれると、心の靄が晴れていく。新聞や小説を読む人、勉強する人など、皆が何かを「取り込む」姿が静謐な空間を作り出す。ページをめくる音、ペンを走らせる音に耳を傾ける時間。他者の生活を感じることで、自分の生活感を取り戻せる不思議な癒しの場所。
February 18, 2025 at 4:18 PM
マンションや団地の魅力は、「巨大な箱に凝縮された数多の生活」という集合感にあると感じる。タンスの引き出しのように、一つの箱に詰め込まれた暮らしの姿に心惹かれる。独立した住居より、集合住宅という言葉そのものを体現した建物の方に強く惹かれてしまう。
February 17, 2025 at 4:14 PM
2025年の元日、家族や友人とカウントダウンを過ごした後、静かな夜の中で2024年の記憶が次々と蘇った。苦しいことも多かったが、周りの環境のおかげで良い一年だったと感じられた。深夜の初詣で、いつもの豚汁が売られていた場所にはキッチンカーが並んでいた。変化を受け入れられるようになった自分に気づく。時は過ぎゆくもの、その中で様々な経験を重ねていく日々のシンプルさに美しさを見出すようになっていた。クラムチャウダーを飲みながら、重すぎず軽すぎない今年の歩みを思う。
February 11, 2025 at 4:21 PM
月明かりの美しさを感じたのは、ある冬の夜の旅行中のことだ。疲れて目覚めた後、ホテル近くの川沿いを散歩した。人工の光が届かない静かな場所で、月光に照らされた草木のきらめきに魅了された。強い光の中にいては気づけない月の輝きの美しさを、その夜の経験で深く理解した。今でもその夜の情景を思い出し、時々部屋を暗くして月を眺めている。
February 6, 2025 at 3:51 PM
旅することが苦手だ。家でのんびりと本を読んでいるのが好きだ。けれど、思考を旅させることは好きなので、それをもって旅好きとする……のは無理があるか。
松尾芭蕉は【旅に病んで夢は枯野をかけめぐる】と詠んだ。旅・俳句に対しての強い思い。そんな思いを僕も持ちたいと思う。持てたら良いな。
January 22, 2025 at 4:12 PM
誰かがそこにいたという痕跡を見つけると、なんだか嬉しくなる。

葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり

釈迢空の短歌はそんな感覚を鮮やかな描写で表現してくれている。
January 13, 2025 at 4:41 PM
良いと感じた目の前の風景を、それと表さずに言葉として出力できたらどんなにすばらしいか。与謝蕪村の名句を読み直すたびに考える。

春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな

こんなに短いのに、「そこ」にある風景が凝縮されている。
表現というものはどこまでも深い。憧れてしまう。
January 11, 2025 at 6:31 AM
種田山頭火の『行乞記』。
その中に出てくる文章がとても好きだ。

(私はまた旅に出た)

から始まる部分が特にいい。
流れるようにして言葉が続いていく。表現は美しいのにどこか物悲しくて、けれど勇ましい。
なんてかっこいい文章だろうといつも思う。

(水は流れる、雲は動いて止まない、風が吹けば木の葉が散る、魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥に似たり、それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、うつりゆく心の影をありのまゝに写さう。
私の生涯の記録としてこの行乞記を作る。)

生きた記録をこんな風に残せたらどんなに素敵だろう。
January 8, 2025 at 4:38 PM
「永久って、なんで〈とわ〉って読むんだろ」
学生時代、誰かが言った。

読み方を変えるだけで、言葉の印象が変わると意識したのはその時からだ。

永久不変を古語では「とことわ」と表現する。柔らかい言葉の響きが好きだ。

言葉というのはいろいろな型があって、その型を崩したり組み替えたりして新しい形を作ったりする。現代の言葉は圧縮表現が多いだろうか。大きな感情をあえて簡潔にすることで共感や相槌をひとつにまとめていたりする。

古語の持つやわらかな響き。
今時の言葉が持つ圧縮の面白さ。
言葉は身近で、当たり前で、深くて複雑で。
そんな言葉の魅力に、いつもとらわれてしまっている。
January 7, 2025 at 1:27 PM
熱があったころを「あの頃」として語る人が増えていく。
熱意はなくていい。けれど、心の中の熱は絶やしたくない。

さりともと 思ふ心も虫の音も よはりはてぬる 秋の暮かな

藤原俊成が詠んだ熱の終わり。
枯れるなら、せめてこんな風に哀愁を美しく詠めるような心を持ちたい。
December 28, 2024 at 4:46 PM