Tatsuo Tabata
tttabata.bsky.social
Tatsuo Tabata
@tttabata.bsky.social
Physicist, Professor Emeritus Osaka Prefecture University
 早咲さんは左利きですか。私は幼い頃に左利きになりかけたのを直されたので、箸や鉛筆は右利きの持ち方で、真似事程度のソフトボールや野球も右利きでしたが、ドライバーや歯ブラシの使用などは左利きになっています。それで、何かの左右を問われると判断を間違えることがよくあります。そういう私が鏡像の謎について論文を書いたのは妙なことです。この謎について興味を持ったきっかけは、朝永振一郎著『鏡のなかの世界』中の同題名のエッセイを読んだことでした。
November 11, 2025 at 10:44 AM
 円筒座標説と多幡説(直交座標使用)に互換性はないです。上下、前後の区別がある場合にのみ左右があり得るので(2次元的な文字の場合でも、それがのっている媒体の表面が前で、裏面が後ろに相当)、鏡像の謎を論じるには、直交座標系が不可欠です。ところで、古来の鏡像の謎は、本来、先のコメントに書きました例のように、「右投手の姿をどう映しても、鏡像は左投手の姿になる」のはなぜか、というような意味に捉えるべきと思います。そうすれば、謎そのものを否定する説(例えば小亀や前野の説)は出て来ないでしょう。(円筒座標説で「前後」について明確な言及をしていないのは、謎そのものに出て来ない向きだからかと思われます。)
November 11, 2025 at 2:59 AM
 前野氏は垂直な鏡面に正対した人の鏡像は「反転」してはいないが、反転したように思うのは、「無意識のうちに我々が『鏡の裏側に回ったら』ということを仮定しているから」としていますね。この『鏡の裏側に回ったら』は、多幡説では、「鏡像と上下、前後を合わせて鏡像の固有座標系を見やすくすると」と言えます。その結果、実物と鏡像のそれぞれの固有座標系で最後に決まる左右方向での特徴が逆(彼のいう「反転」でなく)と認識されます。鏡像で左右方向での特徴が逆になるのは、鏡面に正対した場合に限りません。右投手の姿をどの方向から鏡に映しても、その鏡像は左投手の姿になります。前野氏の解説を読んで、話がそれましたが。
November 10, 2025 at 8:19 AM
なお、完全な円筒形物体には、表面に顔の絵でもなければ、上と下の区別がなく、前後方向というものもありませんので、固有の上下、前後、左右軸は決まらなくて、おっしゃる通り、前後も左右も逆転は認識されません。
November 10, 2025 at 1:54 AM
 加地説は鏡に正対した自分の鏡像の認識だけを問題にして、「実物を回転して鏡像と比較する、その回転軸は空間認識に無自覚で使用する円柱座標中のz軸で、上下(頭足)方向をさらに無自覚でこれに当てはめているため、上下の反転はない」と説明しているのですね。鏡面に垂直な前後軸は、鏡面上には直接見えていないので、その「反転」を見ることはないという前提があるようで、「回転説」の一種のようです。円柱座標系のz軸に上下を当てはめて議論を正確に進めようとすると、あと、前後、左右を当てはめる軸がありませんが...。(続く)
November 10, 2025 at 1:54 AM
 加地説は次の通り。「想像上で物体(鏡像)を回転させる際の回転軸方向は反転しないで、それに垂直な方向(回転軸の周りの配置)が反転するということにすぎず、また、その回転の方向は任意であるにもかかわらず、私たちは(二重の意味で)無自覚のうちにそれを上下(頭足)方向に設定しているので、上下方向は反転せず、水平方向のみが反転するという不思議な非対称性を鏡が生じさせているかのように思ってしまう。」水平方向のうち、なぜ、前後でなく左右が逆になると見るかの説明ができていないように思います。上記引用より前の文では、鏡面に並行な方向が逆になるとの前提をしているようですが、その理由が不明です。
November 9, 2025 at 6:05 AM
 数日前に届いた『學士会報』No. 975, p. 32に加地大介「哲学における鏡像反転論」という文がありました。同氏の鏡像反転論は著書『なぜ鏡は左右だけを反転させ得るのか:空間と時間から考える哲学』(教育評論社、2024)に示したとして、それが紹介されています。空間認識の「直交座標」説を否定し、「円柱座標」説を持ち出したものです。私は、この問題については、「氏の説に有利に対決できる」(問題の最終的解答と書きたいところを遠慮した表現です)新「直交座標」説(左右軸の従属性説)が三つの文献によって独立に一致して唱えられていることを、『學士会報』の「会員ひろば」欄で紹介したいと思っています。
November 9, 2025 at 2:50 AM
ダウンロード用のURLを書いておこうかと思いましたが、私が原稿の形で置いてあるResearchGateとAcademiaのサイトは入会しないとダウンロードできないかと思い、また、出版社のサイトでは要約以外へのアクセスが制限されていて、書きませんでした。どこからダウンロードできましたか。
October 28, 2025 at 1:58 AM
その通りです。色々よくご存知ですね。
October 28, 2025 at 1:33 AM
「座標系を選ぶ選ばない」については、常に無意識に固有または共有のどちらかの座標系を使っている、というのが答えです。「同時に2つ出てきて混乱する」については、「完全な同時で2つ出てくる」ということはなく、鏡像のどの部分あるいは位置と形のどちらに注目しているかが一瞬でも異なって生じている時に「同時に2つ」のように感じられる、という答えになります。「他の手段で反転認識」とは具体的にどういうことか分かりませんが、「他の手段」と思われる背後にも、無意識に座標系の適用はなされている事実がある(そうでなければ、上下、前後、左右などの認識ができません)ということになります。
October 27, 2025 at 5:48 AM
 「まだ扱わない」と書かれた事柄について確かに触れてはいませんし、同説の最終論文 [吉村と共著の H. Yoshimura and T. Tabata, Relationship between frames of references and mirror-image reversal. Perception, Vol. 36, pp. 1049-1056 (2007) なので、吉村・多幡説となります] でも扱ってはいません。しかし、吉村・多幡説の応用として答えを導き出せます。(続く)
October 27, 2025 at 5:41 AM
なるほど。もっともなご意見です。多幡説は認識あるいは感覚自体の論ではなく、鏡像の認識あるいは感覚時に生じていることの数物的「解釈」なのです。ですから、同じ鏡像についても、どこに着目するかによって、座標系は瞬時に(無意識的に)変わり得て、実際変わっていると解釈します。つまり、一つの鏡像についての異なる座標系の使用は十分にあり得るとみなします。また、感覚と認識の一致が必要と考えるものでもありません。
October 26, 2025 at 2:51 AM
私には早咲さんによる二つのまとめの表現意図がよく分かりますが、一般には詳細が分かりにくいと思います。私の表現で少し詳しく書くと、次の通りです。
1. 平面鏡による物体の鏡像の形は、元の物体の「対掌体」(右手と左手のような関係。数学・物理学用語での「反転」状態とも言える)である。[上下・前後・左右のうち、どの向きが逆になっている(「逆転」している)かは、見方(座標系の取り方)による。]
2. 直角合わせ鏡による鏡像の形は、元の物体の「対掌体の対掌体」で、元の物体と同じ。ただし、向きは「回転」している。
{1. で[ ]内まで含めると、異なる見方が入ってきて、光学的効果以上の話になります。}
October 26, 2025 at 2:16 AM