のりっく@泡沫戦史研究所
banner
noricksakurai.bsky.social
のりっく@泡沫戦史研究所
@noricksakurai.bsky.social
第2次大戦枢軸軍の泡沫のように消えた名も無き小部隊、臨時編成部隊、外国人義勇兵、東部大隊、警察部隊などを研究しています。
あおぞらでは戦時商船、仮装巡洋艦、封鎖突破船、徴用漁船を中心に投稿予定。

X https://twitter.com/noricksakurai
Togetter https://togetter.com/id/noricksakurai
泡沫戦史研究所 http://www.eonet.ne.jp/~noricks/
1941年までに極東を出発した13隻は、中止1隻、拿捕1隻、沈没2隻で9隻がヨーロッパに到着して成功率69%、沈没の1隻は戦艦ビスマルクの捜索に引っ掛かり、もう1隻はUボートの誤射なので、不運だったとしか言いようがない。
一方極東行きの5隻は中止1隻、沈没2隻で無事到着したのは2隻のみで成功率40%で、沈没の2隻はいずれもビスケー湾で撃沈されており、ビスケー湾はこのころから鬼門であった。
February 3, 2025 at 10:03 AM
Pietro Orseoloの貨物は生ゴム1,988トン、食用油4,486トン、錫86トン、タイヤ28トン、ウッドオイル21トン、寒天など合計6,646トンで、約4000トンがドイツ向けだった。
この航海はイタリア海軍司令官、ドイツ海軍のレーダー提督、ヒトラー総統からの賛辞を受け、Zustovich船長及び機関長には戦功章銀章が、士官には戦功章銅章が、その他の乗組員には戦功十字章が授与された。
Pietro Orseoloはイタリア最大、最新の近代的貨物船の一隻で、1942年7月7日にはイタリア海軍の技術者と労働者による特別チームがボルドーに送られ、極東行き封鎖突破船として準備が始められた。
October 18, 2024 at 9:45 AM
日本出発の2日後には日本側の哨戒機に誰何され警告射撃をうけたがイタリア国旗を掲げて事なきを得た。1月2日にも日本軍の四発大型機が現れたが、Pietro Orseoloの呼出符号を確認すると飛び去った。
1月25日にはホーン岬を大きく迂回して通過し、フォークランド島と南ジョージア島の間を通過して大西洋を北上した。ブラジルとシエラレオネの間の最も狭い海域を北上する際には、悪天候と海流のため予定航路から外れ2日の遅れが発生したが、予定航路をショートカットして約10時間を短縮し、2月22日にIrun港に到着した。翌23日には3隻の護衛とともにジロンド川河口に到着し24日にボルドーに到着した。
October 18, 2024 at 9:32 AM
悪天候の中での修理は不可能で、1月24日にホーン岬を通過したところで島陰に停泊して本格的に修理が行われた。12月28日2100時頃から開始された機関修理作業は結局1月3日の0300時頃までかかり、その間には悪天候で痛めつけられたドア、隔壁、舷窓、パイプ類、浸水個所やボートの破損修理も行われた。
Cortelazzoはフォークランド島と南ジョージア島の間を通過して大西洋を北上したが、米海軍も加わり警戒厳重となった海域を避けて西寄りの進路をとり、サルガッソ海東側でアゾレス諸島に進路をとり、1月23日にアゾレス諸島北西でビスケー湾に進路を変え、1月25日に仏国境のイルンIrun港に入港した。
May 7, 2024 at 3:17 PM
Cortelazzoは日本船に偽装して太平洋を南下し、ギルバート諸島~エリス島間を航行中の12月7日/8日に日本軍が真珠湾を攻撃してた。このためスウェーデン貨物船「デリー」Delhiに衣替えし、ファンネルマークは青丸と黄色ラインのスウェーデン王室カラーに塗り替えられ、船体には船名、母港名「ヨーテボリ」Göteborgとスウェーデン国旗が大書きされた。
12月9日/10日から激しい嵐に遭遇し、ホーン岬に近づくに従い天候は急激に悪化し、氷山の危険も加わった。12月22日1700時頃機関故障で一時航行不能となり応急修理で航行を再開できたが、本格的な修理には4時間が必要であった。
May 7, 2024 at 2:39 PM
ヨーロッパ向けの物資は植物油1,400トン、落花生1,140トン、タイヤ496トン、麻285トン、ラッカー275トン、紅茶259トン、錫159トン、ニッケル61トン、銅36トン、タングステン10トンの合計5.639トンが積載され、このうちドイツ向けは4,309トン、イタリア向けは1,330トンで軍用のほか民生用物資も含まれていた。
太平洋からボルドーまでの航路はあらかじめ《C》から始まる17か所の地点が指定され、いくつかの地点では到着予定月日も指定された。日付は1日程度の誤差しか許されず最後の2地点は予定日厳守が求められた。これはUボートや他の部隊による味方撃ち防止の措置であった。
May 7, 2024 at 12:44 PM
14)1941年10月22日、4隻目の極東行きの封鎖突破船としてボルドーを出発し、途中インド洋で活動する仮装巡洋艦Kormoranとの会合も計画されたと思われるが、1941年11月19日に豪巡洋艦「シドニー」HMAS Sydneyとの戦闘で沈没したので実現はしなかった。
Portlandは大西洋~ホーン岬~太平洋経由で1942年1月1日に無事大阪に到着した。
May 2, 2024 at 2:18 PM
極東への封鎖突破船4隻目、通算14隻目は貨客船Portland
1928年4月に建造されたHapag社のサンフランシスコ級貨物船で、速力14ノットを発揮し、一等24名、三等24名を収容でき、4月19日に竣工後7月7日に北アメリカ西海岸への処女航海に出発した。
1939年9月22日にチリのコキンボに退避したが、1940年12月4日に修理のためタルカワノに移動し1941年1月にドイツ本国へ向けて出発した。2月に装甲艦Admiral Scheerと貨物船Nordmarkから300名以上の拿捕船員を収容し、船内は過密状態で3月13日に反乱で捕虜2名が死亡する事件も発生したがボルドーに到着した。
May 2, 2024 at 1:41 PM
13)1941年10月21日大連を出発し、直後の10月24日未明に九州沖で訓練中の空母「飛龍」の臨検を受けたが、封鎖突破船とわかるとすぐに解放された。南太平洋のソシエテ諸島でKulmerlandと会合し、仮装巡洋艦Kormoranから捕虜船員86名を移乗させた。1942年1月31日、北大西洋でU333の誤射により沈没した。
U333の艦長クレーマー大尉はロリエンに帰還後逮捕されたが、軍法会議ではSpreewaldが定期連絡を怠り、予定よりも早く航行していたとして無罪となった。
May 2, 2024 at 12:42 PM
1942年1月11日スペインのフェロル北東約120㎞の海上で護衛のU373と共に英軍第105飛行隊のモスキート6機の攻撃をうけて損傷し、1月12日にスペインのフェロルに退避し、1942年11月7日にボルドーに回航されたが、1944年8月5日ジロンド川河口の封鎖船として自沈した。
April 28, 2024 at 10:43 AM
極東からの封鎖突破船9隻目、通算12隻目は貨物船Elsa Essberger
1938年にハンブルクで建造されたエスベルガー海運の貨客船で、乗客36名分の客室と設備はエルサ・エスベルガー婦人自らの監修で特に力が入れられ、ナチス党の成功の象徴となった。
1939年9月の欧州開戦の時点で神戸に寄港しており、ドイツ海軍に徴用されて太平洋で仮装巡洋艦OrionとBennoへの補給任務に従事した。
12)1941年10月14日、生ゴム4,000トンとその他の貨物990トンを積載し、来日していた独空軍のフリッツ・ロージヒカイト特使も便乗して佐世保を出発した。
April 28, 2024 at 10:42 AM
極東からの封鎖突破船8隻目、通算10隻目は貨物船Burgenland
1928年8月にフルンスベルクで建造された貨物船で8月16日に竣工すると9月1日から東アジア航路への処女航海に出発し、1939年9月3日の時点で神戸に停泊していた。
10)1941年9月21日神戸を出発、12月10日に無事ボルドー到着した。
April 3, 2024 at 6:11 AM
封鎖突破船リオ・グランデRio Grabdeは、9)1941年9月21日にベンノBennoに続き極東行きの第二船としてボルドーを出発したが、第一船のベンノBennoが中止したため1941年12月6日に無事大阪に到着し、欧州から最初に日本に到着した封鎖突破船となった。
April 3, 2024 at 6:05 AM
極東への封鎖突破船1隻目、通算8隻目はタンカーBenno
元ノルウェータンカーオーレ・ヤコブOle Jacobで、1940年11月10日にベンガル湾で仮装巡洋艦アトランティスAtlantisに拿捕され神戸に回航された。
2)1940年12月に極東発の第二船として神戸を出発し仮装巡洋艦オリオンOrionの随伴タンカーとして太平洋~インド洋で活動後にボルドーに向かい、ジロンド川河口で英潜水艦HMS Tunaにより損傷しながらもボルドーに到着し、その後ベンノBennoと改名した。
8)1941年8月30日極東への第一船としてボルードを出発したが途中で中止しボルドーに帰還した。
March 28, 2024 at 8:40 AM