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備忘録
母が居なくなって四ヶ月が過ぎたが

遺影を見れば
生前最期の姿を思い出し
独りで旅立たせた事を後悔し

眼を閉じれば
バタリアンの様に変わり果てた
棺の中の姿を思い出し
よく眠れない

食べさせる人が居ない中
スーパーで献立を考える事すら
寂しくて苦痛である

…いつまで続くのだろうか
May 21, 2025 at 9:05 AM
葬儀当日

棺に入れる
服、写真、お気に入りの物を鞄に詰め
斎場へ

時間になり一週間ぶりに
母と対面する

一週間ぶりにみた母の変わり様に涙が止まらなかった
閉じた目は半分開き
閉じた口は開いてしまっていた
ドライアイスに閉じ込められた身体はキンキンに冷えていた

遺髪を切る手は震えが止まらなかった

一週間のドライアイス代は結構な額で これなら高くても近県の斎場で綺麗なままで火葬してあげたかったが後の祭り

母に一礼して棺の蓋を閉めた

焼かれた母の骨は84歳と思えない程 太くてしっかりしていた

骨になってやっと帰宅出来た母を見て
不憫だな と また泣いた

私はひとりぼっちになった
March 3, 2025 at 6:54 AM
亡くなった時点で
市民が安価に利用出来る斎場4か所の火葬場
全て埋まっていて押さえた日は一週間後だった

その間に私がしなければならない事は遺影写真の準備

母は天才的に写真を撮られる際に目を瞑る人で
まともな写真が無い
それに加え 近年は写真を撮られる事を嫌い
マイナンバーカードの証明写真くらいしか無かった

業者に依頼して届いたサンプルは
やたら血色の良い艶っぽいもので
業者をキャンセルし
自らスマホアプリだけで作ることに

孫を消しゴムマジックで消し
左肩を反転させて右肩にして合成
洒落た壁紙にしたりして
自分なりに満足した出来栄え

意外と自分で作る事をオススメします
March 3, 2025 at 6:32 AM
父が来て
死亡確認を終えると
病院も時間も待ってはくれなかった

悲しんでいる暇もなく
看護師さんはエンジェルケアに入り
私は目星をつけていた葬儀社に連絡をした

母は薄く化粧をされ
頬か紅く染まっていた

病院の霊安室に運ばれ
私は諸々の書類にサイン

父は母の亡骸の写真を撮っていた

そんな姿 写真に撮ってどーすんだよ? と私

いいんだ どうせ消すんだから
葬式までの間だけ
と半ばキレ気味に言い返してきた 父

その時点で
母の顔は亡くなった時より
若干変わり始めていたように思えた

葬儀社の車で家まで送ってもらい
家に帰りたかった母を葬儀社に預け帰宅

お母さん またな✋
March 3, 2025 at 6:16 AM
病院に着くと
当直の看護師に

様子を見に行けてなくて
気づいた時にはもう……すいません
と言われた

病室を開け
ヨッチ(母が命名したあだ名)来たよ✋と声を掛けたが
いつもならこっちを向く母からの反応は無かった
さっきまで手を振っていた母は全く動かなかった

額を触り 手を握り
まだ温かいのを感じながら
耳元で
生前 本人に言った事も無かった感謝を長く伝えた

心臓がいつ止まったのかは知る由もないが
しばらく脳が生きている間は声が届くという話を信じて

号泣したり冷静になったりを繰り返しながら
父が来るまで母の亡骸と2時間過ごした

やがて父も到着し
医師の死亡確認も終えた
March 3, 2025 at 6:01 AM
帰宅して 一時間
電話が鳴った

ついにその時が来たか と
一呼吸置いて電話に出た

呼吸と血圧が下がっています
直ぐに来てください

昼間とは違って
冷静に父に電話した
帰宅したばかりの父は電話口で舌打ちをした
それは悪い意味では無く
帰らなければ良かった
そう 私は受け取った

私も直ぐに着替えて家を出た
しばらく歩いてから
あっ タクシーか
と思ったが
最寄り駅にタクシーが停まってなければ歩こうと思った

自分の中で生きてるうちに間に合わないと思ったし
心の準備も欲しかった

本音を言えば死を目の当たりにした自分がどうなるのかが怖かった

母の最期から逃げたのだ
March 3, 2025 at 5:47 AM
上手く飲み込めていない感じだったが

呼吸は?
……大丈夫

息出来る?
……大丈夫

その時点で
ちょっとイヤな感じがしたのでスマホで撮影し始めながら

明日13時来るから
それまで頑張ってな

いつも帰り際にする
握手をした

母は30年 自転車で保険屋してたので
病人とは思えない程の握力で毎日握り返してきたが
その日は最初弱かった

いつもみたいにギュッと握り返してみな
と促すと
いつも通り力強く握り返してきた

その時点で何かを悟り
私は号泣していたが
母は手を振っていた

……それが最期だった
March 3, 2025 at 2:18 AM
姉と父が帰り
母は
みんな帰っちゃう
と一言

オレは残るよ と私

面会時間を少し過ぎるまで
病室で二人きり

明日は何時に来るのか?
と母

母は常に喉が渇いていたが
看護師さんも
トリアージ的に最重要患者扱いしてくれていないのは感じていたから呼んでも直ぐは来てくれなくなっていたので
私に逢いたいとゆーより
何時まで水分を我慢すればいいのか?という意味だ

面会時間開始の13時には来るよ と私

ホッとしたような母に
帰る前に水を飲ませ
口の渇きを潤すスプレーを吹き掛けた

ただ 飲ませた少量の水も
上手く飲み込めていないようで

ベットを起こして
ゴックンしてみな
と何度も促した
March 3, 2025 at 2:11 AM
実は
入院して一週間後くらいから
スマホで動画を撮り始めていた

まだ 余命宣告的な事を言われる前だったし
何十年ぶりかの母と意思疎通出来ている会話が楽しかったし
悪運の強い母が死ぬ事は想像していなかったんで退院したら笑い話に出来るかな
とも思っていた

しかし、余命宣告を受けてからは動画を撮る事に躊躇したのも事実
でも撮影を止める事は出来なかった

後々 姉とゴタゴタしないように
母の年金を治療費に充てる承諾も動画に残した方がいいと思って撮り続けた

1月18日
病院から呼び出され
家族全員揃った訳だが
全く撮影する事は頭から抜けていた
March 3, 2025 at 1:58 AM
病院へ駆けつけると
意外にも 母は通常運転で
会話もいつも通り交わせた

父は着くなり号泣したのも意外だった

姉は相変わらず冷めた感じで
いつも通りの母をみて私に

病院からなんて言われたの?
(忙しいんだからこれくらいで呼ばないで と言ってる感じ)


容態も安定し
この状態なら通常の面会時間でお帰りください
と看護師に言われ

父と姉は18時前に病院を後にする

図らずも
この日この時間が
家族全員同じ空間で過ごす最後の時でもあった
February 4, 2025 at 10:47 PM
2025年1月17日
施設の人が母と面会
転院は1月20日と決まる

尿の量が減り
確認に来た看護師が
母を目の前に

亡くなる前は尿の量が極端に減るんですよ
と無神経でバカな説明を私にする

2025年1月18日
午前中 病院から
血圧低下
呼吸の乱れ
来て頂いた方が良いかも知れませんとTEL

仕事中だったが父へ連絡
……がその時点で取り乱し上手く伝えられない

電話越しの父は事態を察し
すぐ行く と

一旦 心を落ち着かせ
目先の仕事をこなし
上司へ断りを入れて病院へ
February 4, 2025 at 10:46 PM
米に含まれるL-アルブミンを摂取しないと血液中の水分が浮腫になると医師に聞いたのを思い出し
母に飲ませるヨーグルトにお粥を少し混ぜてブレンダーでトロトロにしたものを飲ませたりもした(微かな期待を胸に)

病院のソーシャルワーカーから救急医療に特化した病院の為
転院を促される
梯子を外された気分になるが
仕方のない事なので
紹介された施設へ出向く

紹介された施設は家からも近く面会時間の制限もない
医療面でも遜色ない
母の年金+‪α‬でもやっていけるとお願いする事にした

施設の人は早速転院に動いてくれ
翌日には母へ面会し説明してくれて母も転院へ前向きに

が神様は残酷である
February 4, 2025 at 10:21 PM
無事 年は越えたが
状況は変わらず
栄養剤だけでは血液中の水分が浮腫として顕著に現れ
面会中は
手のマッサージをしながら
会話を楽しむ

が肺にも水が溜まりだし浮腫も酷いので
と 栄養剤の点滴を外される

知人から 点滴外されて3日後だったウチの母は
と聞かされていたので
ちょっと自分に気合いを入れたのを覚えている

自分で看護師や医師に確認しプリン、ヨーグルト、ゼリーは食べて良いと言われたから

翌日から毎日1品持参して食べさせた
満足そうに平らげて安心した
February 4, 2025 at 10:11 PM
入院して
自由のなくなった母は
ボケてしまうかと危惧していたが
それに反して

本当に精神障害者手帳持ってる人か?

と思える程
会話が成立し
昔話も疑問に思っていた事も
スラスラ答えてくれた

口を開けば喧嘩していた
この24年が嘘のように
自宅介護以降
母との会話が楽しかった

その状況に
もっと早く病院へ連れて行けば良かった と
あちこち出かければ良かった と
後悔の波に呑まれ
面会帰りは年甲斐も無く
毎日涙した

しかし 現実は容赦なかった
February 4, 2025 at 9:54 PM
状態としては骨盤に沿って腫瘍が膣や腸に浸潤していて
肛門からカメラを入れても先に進めない状態
固形物を食べると腸を圧迫している腫瘍から出血するので
栄養剤で栄養補給するしかない

体力的にも抗がん剤にも手術にも耐える状態に無い

血液検査の結果も悪いので
明日容態急変してもおかしくない
と いわゆる余命宣告である

その場合
心臓マッサージをするか
気管内挿管をするか
と問われるが
気が動転している私を後目に
姉は

どうしようもないってことですね(にやけながら)
どうするかはアンタ決めて良いよ


ヘラヘラして無責任な奴だ
と 改めて姉に嫌悪感を抱いた
February 4, 2025 at 9:25 PM
翌日から
毎日面会に病院へ

コロナとインフルエンザ対策で時間も人数も限られたが
認知症になる不安から毎日通った

意外だったのは
離婚してはいないが40年別居(定期的には会っている)している85歳の父が週3日くらいは面会にやってくる事
贖罪の意識からだろうか

入院から10日後 私と姉が呼ばれ医師から説明を受ける
February 4, 2025 at 9:20 PM
医師から受けた説明は
診療所の医師の説明と真逆だった

ココとココの影
と説明された部分は空気で
その影以外は全部腫瘤
巨大な腫瘤です


採取してみないと悪性か良性かは判りません
が現在の栄養状態と体力を考えると何とも言えない


その時点で
軽く 死 が頭をよぎったが
今までの人生
数々のピンチを乗り越えて来た母の死は想像出来なかった

自宅が大好きな母から
ウチには帰れないのか?
と切ない顔で言われたが
今は我慢して調子よくなる事だけ考えよう
と 母を励まし自分に言い聞かせ
病院を後にした

家を出てから9時間近く経っていた
February 4, 2025 at 9:06 PM
幸いにも家から数百メートルの所に共産党系診療所があり
車椅子を借りて嫌がる母を説得しつつも半ば強制的に連れて行った

血液、胃カメラ、全身のCT検査
ありとあらゆる検査をした結果
異様に白血球数が多い


約1ヶ月 毎週検査と投薬を続けたが一向に白血球の数値が下がらない
のに加えてずっと貧血状態
改めて下腹部をCT検査

診療所の医師は

ココとココの2ヶ所の影が怪しい
貧血状態が酷いので大きな病院へ
と 診療所から救急病院へ搬送

到着後 診断直後
輸血の必要がある と輸血の同意書にサイン

待合室で5時間経過して
医師に呼ばれ受けた説明に
血の気が引いた
February 4, 2025 at 8:56 PM
11月の第1週までいつものように出歩いていた 母が
急に前のめりに倒れた...半分ズボンを降ろしたまま

駆け寄るとヨダレを垂らしながら
...立ち上がれない、水が飲みたい

昔 介護の番組でみた事を思い出し
見よう見まねでたちあがらせると

もう大丈夫
と すいすいトイレへ歩いて行ったので 一安心しつつも
明らかな普段と違う感じに
翌日病院へ連れて行く事を決めた

案の定
お母さんは大丈夫だから
病院は行きたくない と駄々を捏ねた

一旦私は外へ
病院へ連れて行けないなら訪問診療を と色々検索していると両親を介護して看取った知り合いに話しかけられ
力ずくでも連れて行くよう促され腹を括った
January 21, 2025 at 11:53 AM
このパチンコのおかげで
母との関係はますます悪くなり
真剣に 早く〇んでしまえ
と思ったし 声にも出した

この頃から母のお腹が緩くなり度々おもらしをするように

そんなに漏らすならオムツでもしろよ


それでも母はパチンコへ出かける毎日

...2024年 夏前くらいから母は急激に痩せ始める

余りの痩せ具合に
病院へ行きなさい と何度言った事か
しかし、母が行くのはパチンコ屋

そのうち家でおもらしする回数も急激に増え
本人は嫌がったが試しにオムツを購入しトイレに置いておくと使うようになっていた
January 21, 2025 at 11:44 AM
そんな日々が何十年も続き(勿論 良い感じの時もたまにはあったが)
コロナ禍前
エアコンが効いて、タバコが吸えて、時間が潰せる
とゆー事で 久々にパチンコ屋へ行った母はハマってしまった

それはギャンブル依存症と言っていいくらいのハマりようで
年金を2週間で使い果たし
私の財布から無断で3万持ち出したり...

この時 一度行政の手を借りようと資料まで取り寄せたが
結果として見送ってしまった

今 思い返してもターニングポイントだったと思う

物事を先延ばしにしてしまう
私の悪い面が出た
January 21, 2025 at 11:34 AM
喋れば口喧嘩になるし
都合の悪い話になると
母は出かけてしまう

これではイカンと
何処かへ出かけようか?と提案しても

今日は調子が悪い
今日は疲れているetc

明らかに私とは出かけたくないように見えて
そのうち同じ屋根の下に居ながら
一日 顔も合わさない 言葉も交わさない
ことも当たり前になっていた

季節の変わり目になると母のおかしな行動、言動、目線の全てが しんどくなる事も多く
わざと見て見ぬふりをして過ごすのも当たり前になっていた
January 21, 2025 at 11:23 AM
世の中に100円ショップなるものが出始めた頃

月3000円で食費をやりくりし
本屋で 自己破産マニュアル を購入
勿論、弁護士を頼む金も無いので
本と書類とにらめっこ

自分自身が負債者では無いし精神がおかしくなった母は

借金なんかしていない
の一点張り

で大変過ぎて帯状疱疹を発症
...頑張るしかなかった

頑張れば結果はついてくるもので無事借金はチャラになった

が 母的には借金はしていないし定年一年前に仕事を辞めさせた張本人として
私を敵視する

一言も感謝されない事に
憤る日々だった
January 21, 2025 at 11:15 AM
この24年
母との関係は非常に悪かった

事の発端は
母の借金 と それによる母の精神疾患の為である

とても仕事を続けられる経済状態、精神状態では無かった為
半ば強制的に仕事を辞めさせた

どのようにして仕事を辞めさせたのは
今となっては全然覚えていない
父か姉が対応したように思う

その後、私が着手したのは1500万近い負債の処理

退職金は1000万弱あったのだが税金滞納分に持っていかれたのだった
January 21, 2025 at 11:05 AM