シロイ+
banner
shiroizep.bsky.social
シロイ+
@shiroizep.bsky.social
36 followers 26 following 310 posts
シロイの過去の真面目な投稿からランダムにピックアップしたものをお届けします。ネタ投稿バージョンは @shiroizei.bsky.social 中の人 → @shiroibooks.jp
Posts Media Videos Starter Packs
誰かが「私バカなんで〜」って軽い調子で言ってるの聞くと、おまえ〜ッそういうこと言うとおれが悲しむからやめろよォ〜〜ッ!って思う、卑屈な感じじゃなくてサラッと言ってるときのほうがむしろ胸が痛む その人のことを過去に傷つけた奴がいるなって感じる
自分もそれなりに寂しがりなんだな〜って思うことがあったけど、まあみんなそうか、好きになってほしい構ってほしい認めてほしい評価してほしい、誰だってそう
「あらゆる人間関係は距離が近すぎれば必ず破綻する」というのがあって、私のように対人関係検定4級常時不合格みたいな人間は本当に気をつけなければいけないなと思っています
私は自分が勝手な人間だって知ってるし、他の人間も勝手だと思う、みんなが寂しがっているのに、誰かが誰かに手を差し伸べれば人は「あなたじゃない」と言う、そういうこと全体が寂しいと感じる
「論理的に」というのはわりと誤って強調されることがあって、たとえば難しい論理パズルを解ける人でも、日常の中で困った人物と出くわしたときにどれだけ冷静に対処できるかというのは別の話になる。つまり、そこで大事なのは論理的思考力というより「自己の感情を適切に乗りこなす能力」だったりする
やっていく気さえあれば大丈夫 諦めていなければ終わってはいない
人間にとって関心というリソースの空きは常に少ない 誰かが自分に関心を持ってくれているなら、非常に貴重なものを割いてもらっているのだと思ったほうがよい
そこそこの年齢になっても、一定以上に誰かと近しくなると「こういうタイプの人とは以前にも仲良くなったことがあるな」ってのは基本的にない、全員だいぶ違う。「よく見るとその人だけの味わいがあるよね」みたいな意味じゃなくて、普通に全員が全然違う
インターネットでここ200年くらい続いてる男女の奢る奢らない論争見てるといつも思うんだけど、少なくとも他人に「すべき」の切先を向けるなら、自分も他人の「すべき」を向けられ続けることは覚悟しておく必要はあるよねって思う 恋愛でも友達でも、人間関係なんて送ったものしか返ってこないから
さらに言えば、別に弱いのは悪いことではないです
他人との深い関わりを避けるときに「誰かを傷つけたくない」と言うのはやめましょう。それは本当は「自分が傷つきたくない」というのを言い換えてるだけなので。傷つきたくないというのは誰だってそうだし、弱さでも悪いことでもないけど、自分が引き受けるべき心の課題を相手のせいにするのはダメですよ
人に見せられるような何かをやる…というのは私の昔からの基本的な生存戦略で、多少人付き合いが下手でもそういう何かがあれば「向こうから興味を持ってもらう」ということが可能になるからです。簡単に言えば、向こうから話しかけてくれてる限りは「相手は接触を望んでいないのに空気が読めずに突撃してしまう」という事故が避けられる
まだ若者と思われるフォロワーが若さの喪失や行き詰まりの感覚を書いてるのを見かけると、まだまだ全然それよりデカい困難が来るし、あなたも全然今よりデカくなって自力でそいつを全部倒すシナリオになってるんですよ…と思ったりする(声はかけない、知ったような口をきくのは無礼であるから)
「何も間違ってないけど完全に間違っている人」というのがいて、お葬式で泣いてる人に対して「クヨクヨしたってしょうがないから前を向こうよ!」とズカズカと言ってしまうような人です
喫茶店というのは一定時間を席でくつろがせてもらうためにお金払ってるのが半分なので、居心地がbadな席に当たるとしょぼ……となってしまうな…
人間が他人の不幸が好きだなんて嘘、隣で人が笑っていれば笑うし泣いていれば泣く
明らかな美人に生まれるのって、12歳の頃に3000万円拾いましたみたいなものだと思うな。それだけで一生暮らすことはできないわりに、人格形成期に価値観と世界の認識を完全にバグらせる程度の力は持ってる。本人は何も悪くないのに、欲と羨望と嫉妬を常に全方位から向けられるっていう
実力で人から関心を持ってもらうことってすごく難しくて、人は興味のないものは見ないから、作家もミュージシャンもお笑い芸人もみんなそれで苦労する。ただ、若い美人の子がSNSとかに自撮りを上げ続けて、表面的な関心を引くのは特に難しくないんだな〜って感じる
誰だって嫌な気持ちになりたくないというのはもちろんだけど、そういう性質(最大値の一つはどうしても意識される)がある以上、「不快な感情は一切感じたくない」と言うなら一生誰とも会話せずに暮らすしかないんだよなあ…生きてくのって難しいね
人は普段から100の不快を味わっていると50の不快くらいどうってことなくなるけど、普段30くらいに慣れてると急に現れた50にもゲェーッてなっちゃうよね…。たまに怒鳴ってる人(不快100)なんかを見ると、今まで困っていた相手(50)にも「加害的でないだけマシか」と思えたりする
なんとなく、この人は私という人間と会話したいんじゃなくてボールを投げたら跳ね返してくれる壁が欲しいだけなのだろうな…と思うことはときどきある
あと、論理を器用に扱えるというのは知性のほんの一側面でしかなく、たとえばガードナーの提唱した多重知能理論では知能は8つに分類されていて、言語的知能や論理的・数学的知能と並んで対人的知能や身体運動的知能といったカテゴリがあります(この理論にも批判はあるけど、論旨そのものは重要だと思う
主観的であるということは何も悪くなく、悪いのは「主観に客観のような装いを着せること」なのね。主観と客観はどちらが大事かという話ではなく、適切な場面や扱い方が異なるだけで、どちらが欠けても同じように正気とは呼べない状態になります
客観的・論理的に考えたり話したりできない傾向のある人って、まず「主観的に話す」ことができていない気がする。「気分を害した」が常に「あの人は性格が悪い」と意識されている感じ。自分の感情や感覚を外から見た説明や理由付けの形でしか話せない。これを論理的思考力の不足と見るのは少し違う
座禅というのも一種の形骸化と見ていいように思うけど、「本来の禅とはこのようなものなのだ」という言い方自体が既に禅に背いており、これを正確に説明する方法はないような気がする(禅は説明ではないし、どのような定義も拒否するだろうけど、禅自体は何も否定してはいない