なかなか分離しずらいけれど。
なかなか分離しずらいけれど。
ゆらぎの状態(未然の対象とのもつれ状態)が長引くことで図と地が不明確なまま、あてどなく漂流している。
ゆらぎの状態(未然の対象とのもつれ状態)が長引くことで図と地が不明確なまま、あてどなく漂流している。
世界はワンダーに満ちているはずなのに、人間社会では純粋な驚きであっても黙して封印しなければならないのだろうか。それによって得られるもの、失うものはなんだろうか。
世界はワンダーに満ちているはずなのに、人間社会では純粋な驚きであっても黙して封印しなければならないのだろうか。それによって得られるもの、失うものはなんだろうか。
同様に、今・ここを感じたり考えている自分の意識も、膨大な記憶と潜在意識の上に成り立つ小さな存在でしかないと思う。
同様に、今・ここを感じたり考えている自分の意識も、膨大な記憶と潜在意識の上に成り立つ小さな存在でしかないと思う。
その感慨を忘れたり思いが希薄になると、またぐるっと回って気づき直す。このサイクルが短すぎる人はなかなか次のステップへ行けず、いつも同じ悩みに陥りがち。
その感慨を忘れたり思いが希薄になると、またぐるっと回って気づき直す。このサイクルが短すぎる人はなかなか次のステップへ行けず、いつも同じ悩みに陥りがち。
そこを越えて、相手や状況や表現を選びながら、もっともらしい的確な 論を打ち出せるかどうか。
そこを越えて、相手や状況や表現を選びながら、もっともらしい的確な 論を打ち出せるかどうか。
国連も機能麻痺に陥っている。この先数十年で解体されるようなことが起きなければいいのだが。
国連も機能麻痺に陥っている。この先数十年で解体されるようなことが起きなければいいのだが。
暴力をつかんでいるその手の握力こそ恐ろしい
暴力自体は純粋で無色無臭なものかもしれない
暴力をつかんでいるその手の握力こそ恐ろしい
暴力自体は純粋で無色無臭なものかもしれない
これはと思ったものはなんらかの形で早めに出力しておきたい。
外山滋比古はストックしていったん忘れる必要性を説く。潜在意識が働くならそれがいいかもしれない。再び見返すことで冷静な良し悪しの判断もできる。要はストックしただけで安心しないことだろう。
これはと思ったものはなんらかの形で早めに出力しておきたい。
外山滋比古はストックしていったん忘れる必要性を説く。潜在意識が働くならそれがいいかもしれない。再び見返すことで冷静な良し悪しの判断もできる。要はストックしただけで安心しないことだろう。
人間の知覚は階段状なのだが、大脳が補完してスロープとして認知する
…スロープや階段を歩くたびにそのことを考える
人間の知覚は階段状なのだが、大脳が補完してスロープとして認知する
…スロープや階段を歩くたびにそのことを考える
表現も面白く、とつとつとして読みやすい。秘密の日記を読んでいるようでもある。
表現も面白く、とつとつとして読みやすい。秘密の日記を読んでいるようでもある。
そこで守られるものは何か? 真のオリジナリティなんぞ存在しないのに? と、つい嘲笑的になってしまうけれど、その人の思想は自由だ。
そこで守られるものは何か? 真のオリジナリティなんぞ存在しないのに? と、つい嘲笑的になってしまうけれど、その人の思想は自由だ。
具体的には日本語の敬称がある。さん、くん、ちゃん、氏、先生など。呼称が人を縛る。→英語のように下の名で呼びつけを慣行すればいいのだろうか。→一見合理的だが、文化的・情緒的な何かを歪められる危険もある。
サービス業で呼びつけにされる世界を想像すると面白いが。
具体的には日本語の敬称がある。さん、くん、ちゃん、氏、先生など。呼称が人を縛る。→英語のように下の名で呼びつけを慣行すればいいのだろうか。→一見合理的だが、文化的・情緒的な何かを歪められる危険もある。
サービス業で呼びつけにされる世界を想像すると面白いが。
視点から伸びた線が(支点を得ながら)幻想や虚無とバランスをとっている。
完全な幻想や虚無というのがあるのなら、それを認知する視点もないはずで、これは矛盾する。
視点から伸びた線が(支点を得ながら)幻想や虚無とバランスをとっている。
完全な幻想や虚無というのがあるのなら、それを認知する視点もないはずで、これは矛盾する。
自分が落とした種(コンテンツ)によってもたらされる。
自分が落とした種(コンテンツ)によってもたらされる。
自己矛盾こそが自己であり、自己とはすなわち自己矛盾であろう。
自己矛盾こそが自己であり、自己とはすなわち自己矛盾であろう。