酒上小琴
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raizou5th.bsky.social
酒上小琴
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茶の湯と古道具、噺と着物、大河と朝ドラのどうでもいいことを呟く人。浅学。packrat。Epigonen。
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#大河べらぼう
寛政二(1790)年十月、出版規制を強化するため、地本問屋(江戸で作られる草紙類の製作・卸を行う問屋)に対し、地本草紙問屋仲間を作るように申渡しがなされた。

まず、株仲間の中から月番行事二人を決める。出版したい地本問屋は、「開板願書」と「版下原稿(稿本)」を行事に提出。チェックしてOKが出れば、町年寄を通して町奉行へ「開板許可の申請」と「稿本」を提出して、許可が下りると、出版の運びとなる。
これと並行して、行事からは販売許可証である「添章」が発行され、「版木株帳」に記される。

これにより「規制に抵触していないかのチェック」と「重板防止」を行った。
#大河べらぼう
きよの病気は瘡毒、いわゆる梅毒。
梅毒は進行の度合いにより第1期から第4期まであり、現在は第1〜2期に発見され、抗生物質(ペニシリン系など)による治療がなされる。
きよは第2期に見られるバラ疹が出ていただけでなく、すでに感染から数年ないし十数年経っていたものか、内臓や筋肉、骨、そして脳まで病に冒されていたようだ。頭痛や発音にも支障をきたし、記憶障害や思考力の低下が起こり、妄想などの症状が出てくる。
蔦重を見ても分からず、感情も不安定な状態ということは、きよもかなり症状が進んで末期にあった。
#大河べらぼう
#大河べらぼう
人足寄場。寛政二(1790)年に松平定信が隅田川河口にある、石川島と佃島の間に建設した、無宿(罪を犯したり、勘当されたりして戸籍から外された者)の社会復帰のための職業訓練施設。
すでに刑罰を終えた者を収容する場で、刑罰ではない。
人足寄場は退所は年限でなく、作業で得られた賃金を積み立て、積立が所定の額に到達すると出ることができる。あるいは身元引受人が現れれば、退所することができる。またひと月の作業の内、3日休みが与えられ、そこで当時流行っていた「心学」を学ばせた。
現代の刑務所のシステムに近い。
時は明治8年。武士の世が解体され、新たな仕組みが次々と立ち上がっていく時代。まもなくすると秩禄処分が行われ、廃刀令が発せられ、士族という言葉のみが残る。そこにあらがう人も、うまく潮流にのる人もいたが、その多くはすべてを失い立ち尽くす人だったんだろうな。
#ばけばけ
#大河べらぼう
喜多川歌麿は、下野国栃木の商人・釜屋伊兵衛に請われ、大幅の肉筆画を描いたとされる。三度に分けて同地に赴き、雪月花の題で
『品川の月』(天明八年)
『吉原の花』(寛政三〜五年)
『深川の雪』(享和二年~文化三年)
を残した。
ただしいずれの作品にも落款も印章もなく、制作年と作風が異なるところがあるとして、歌麿の作ではないとする見解もある。
ちなみに、三部作は
『品川の月』
(米・フリーア美術館蔵)
『吉原の花』
(米・ワズワース・アセーニアム美術館蔵)
『深川の雪』
(岡田美術館蔵)
の三館がそれぞれ所蔵している。
#大河べらぼう
松平定信が破却を命じた「中洲」。
大伝馬町の名主・馬込勘解由は奉行所に願い出て、新大橋を下った隅田川右岸の砂州を埋め立てると、安永元(1773)年十二月に「中洲新地」を竣工させた。安永四年には三股富永町(中央区日本橋中洲)と町名が付き、茶屋が九十三軒建ち並ぶ一大歓楽街が誕生する。
ところが、この開発が槍玉に挙げられる。天明六(1786)年に江戸市中で起こった洪水の原因は印旛沼の開拓と三股富永町だと噂が立ち、許可した町奉行所、ひいては田沼意次が悪いとされた。寛政元(1789)年に松平定信の命により砂州に戻され、その土砂は隅田川の築堤に転用された。洪水との因果関係は不明。
エックスはまだ調子悪いのか……
普通の会社っていっても、そこには色々な技術が詰まっていて、ここにお願いしないとできないこともある。でも、その技術は、ほんのわずかな部品でしか使われていない、ニッチもニッチなものだったりする。うまくすれば、どこかで応用が効いたりするのかもしれないけど、それを探すすべもない。そんな会社、ザラにあるんですよ。でも、それだけで食っていけるほどではないから、消えてしまう。そうすると困るところも出てくるわけで、どんどん空洞化が進んでいくわけです。大手の企業が、海外持っていって、安く、良品ができるって、喜んでいる時代もいい加減終わり。さて戻ったときは、日本国内に何なかった、ってことになりかけている。
まぁ、戯言として聞いてください。
現在の日本の工業系の中小企業が停滞しているのは以前話した通り。
「停滞している会社なんて廃業か潰してしまえば」
なんて乱暴なことをいう人もいますが、ご心配なく。言われなくても手仕舞いしてますし、潰れてます。
「でも、そこしかできない技術があれば、そういう会社は生き残るんじゃない?」
技術があれば生き残れるけど、その技術が受け継がれなければ、高齢化しておしまいです。今の問題はそこにあります。
それだけではなく、技術が突出していない「普通」の会社も残らないと、ダメなんですよ。高い技術だけで世の中廻っているわけじゃない。前々から言っていますが、裾野は広く。
正】商人の中には、アイヌを酷使する者もいたため、しばしば問題となっていた。
#大河べらぼう
この戦いについて、松前藩に伝えられたのは同年六月のことであった。藩から260人余りの鎮圧軍を派遣されたが、その頃、すでにアイヌの首長達の説得により、到着を前に戦いは終結していた。
七月二十日アイヌへの聴取を行い、即日37人の死罪が決定した。翌日、指導者マメキリから順に斬首され、6人目の時、牢内から危急を知らせる叫び(ペウタンケ)とともに、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢内へ鉄砲を撃ち込み、破れた牢から逃亡した者は槍で突き刺し、37人を殺害したという。
首は全員分取られ、塩漬けにして松前へ運ばれ、残された遺体は一つ穴にまとめて埋められた。
#大河べらほう
#大河べらぼう
米が採れない松前藩は特定の区域を「商場(あきないば)」と定め、区域内のアイヌとの交易権を家臣に知行として与えていた(商場知行制)。家臣はこの交易を指名した商人に任せ(場所請負制)、運上金を受け取っていたが、商人の中にはアイヌを労働力として酷使した。
寛政元(1789)年、支配人勘平から振る舞われた酒を呑んだ惣長人サンキチと、飯を食べた弟の妻マメキリが亡くなるという事件が起こった。同年五月、クナシリ本島とメナシ地方の130名以上のアイヌが蜂起し、クナシリの請負をしていた飛騨屋の関係者70人と松前藩の役人1人が殺害された。「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれる。
#大河べらぼう
「あふむがへしの草双紙は松平豊前守殿作共申し、豊前守作成が夫を春町に託せられし共申…」と『よしの冊子』の寛政元年三月に記されている。『鸚鵡返文武二道』の作者は恋川春町(倉橋格)となっているが、本当は小島藩主松平信義なのではないか、と噂された。
松平信義は「丹波守」なのだが、同姓同名の丹波亀山藩藩主松平信義は「豊前守」なので、これと取り違えたかとも思ったが、時期的には全く重ならないし、何かの誤記なのか。噂話なので、そこまで正確でなかったということなのか。
#大河べらぼう
#昭和元禄落語心中
第4話 劇中の落語

有楽亭菊比古
明烏(高座)
死神(稽古・高座【トリ】)

有楽亭初太郎→助六
船徳(四万六千日様の屋台)
居残り佐平次(真打披露興行の高座【トリ】)

木村家彦兵衛
死神 (居酒屋・稽古)
七百歳を保ちぬるも この御枕の故なれば
いかにも久しき千秋の帝 萬歳の我が君と
元より薬の酒なれば
酔ひにも侵かされず その身も変はらぬ
祈る慈童が七百歳を 我が君に授け置き
所は酈縣の山路の菊水 汲めや掬べや
飲むとも飲むとも 盡きせじや盡きせじと
菊かき分けて山路の仙家にそのまゝ慈童は入りにけり

皆様の齢長からんと祈りつつ、重陽の節句『菊慈童』にて寿ぐなり。
#重陽 『菊慈童』

具一切功徳慈眼視衆生
福聚海無量是故應頂禮

この妙文を菊の葉に 置く滴りや露の身の
不老不死の薬となつて七百歳を送りぬる
汲む人も汲まざるも 延ぶるや千歳なるらん
面白の遊舞やな
即ちこの文菊の葉に 即ちこの文菊の葉に
悉く顕る さればにや
雫も芳ばしく滴りも匂ひ 淵ともなるや谷陰乃水の
所は酈縣の山の滴り菊水の流れ 泉は元より酒なれば
汲みては勧め掬ひては施し 我が身も飲むなり飲むなりや
月は宵の間その身も酔ひに 引かれてよろよろよろよろと
たゞ酔ひ寄りて枕を取り上げ戴き奉り
げにもありがたき君の聖徳と岩根の菊を
手折り伏せ手折り伏せ 敷妙の袖枕
花を筵に臥したりけり
#昭和元禄落語心中
話している姿がすごく綺麗で、女をさせると実に艶かしい。師匠連中がいう「坊が化けた」とは、藝が何かの拍子にグンとよくなり、見違えるようになること。菊比古の『品川心中』にしても、鹿芝居の弁天小僧菊之助にしても、わざとらしさがなく、何もしないのに色気が醸し出されるというのは、落語家に大切な「華」があるということ。 岡田将生の色気が見事にはまる。
#昭和元禄落語心中
第3話
劇中の落語

有楽亭菊比古
夢金(雪の中)
寿限無 (高座)
品川心中(師匠と差し稽古・高座)

有楽亭初太郎→助六
野ざらし(菊比古の部屋)
夢金(雪の中・高座)

(隆生)
長短(高座)

鹿芝居『弁天娘女男白浪(べんてんむすめめおのしらなみ)』