大田別
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「おおたわけ」です。まったく、物部氏は最高だぜ!! 𝕏: https://x.com/mizutakara Blog: https://mononobe.myjournal.jp
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あと、他に人間がいないんだから全裸で海水浴する展開に違いないと思ったのに水着だったのは…
スケベオヤジの発想ですか
終末ツーリング、病院の無い世界なんだからもうちょっと事故や怪我のないように体を守る動きをしてほしい…とハラハラするのだった
遠隔複写で取り寄せた論文は読み終わっちゃった…たのしかった。
また物部氏関係のものが溜まったら申し込みたいので研究者先生方、よろしくお願いします。
送料と振込手数料をケチるため細かく入手せず、2年3年溜めるのが習慣化してるけど、それをネタに自分で論文書くわけじゃないんだからいいよね…最新学説の話はできないですが…
「Ⅱ」にはまとめとして編年図も掲載されていて、いろいろ考えさせられますね。やはりともに墳丘長80m級で規模の大きい舟塚2号墳(TK10期)と道場塚古墳(TK43期?)が地域へのインパクトになり、後者が郡庁が置かれる前提になっていくのでしょうが、国造本紀にみる物部系系譜がどのように取り入れられ定着したのか、いずれに画期をもとめるべきか、なかなか難しいです。舟塚2号墳と同時期に小首長の墳墓も一気に増えていることから、近畿・西日本から遅れることなく継体朝ころにこの地域でも部民制がはじまり、各部の管掌者がそれらに葬られたと推測も可能ですが、国造制も同時に来たと解してよいのか
井博幸・横田篤「久慈川中流域の首長墳I -新発見古墳の紹介と星神社古墳採集遺物を中心に-」 婆良岐考古同人会『婆良岐考古』第35号、2013年
井博幸「久慈川中流域の首長墳I(補遺)-道場塚古墳・星神社古墳・五所皇神社裏古墳-」 婆良岐考古同人会『婆良岐考古』第37号、2015年
井博幸「久慈川中流域の首長墳II -常陸太田市大方・大里地区を中心に-」 茨城県考古協会『茨城県考古協会誌』第27号、2015年
を読む。
既知の古墳の情報整理はもちろん、新発見のものや既に消滅した古墳まで個々に広く検討されていて、長者屋敷遺跡(久慈郡衙・郡寺)周辺を知る勉強になります
東大阪の往生院六萬寺に物部守屋の墓がある…みたいことが大阪府全志に書いてあるんですが、いまもあるのかしら
dl.ndl.go.jp/pid/965801/1...
楠木正行の墓の傍らにある?石棺らしいのですが…ネット上には情報ないっぽいですね。二本松古墳をはじめとする六万寺古墳群があるので、石棺自体はあってもおかしくないです
国立国会図書館デジタルコレクション
dl.ndl.go.jp
ブラタモリは明神池の遥拝所のところまでタモリさん行ってましたね…
いま開催中の「高安の古墳とその遺宝」図録がA4版55頁の重量:290g 厚さ:4mmで800円なのに対して、「考古資料からみた 八尾の古代氏族-物部氏-」のときはA4版64頁の重量:315g 厚さ:5mmが450円だったのはずいぶん安かったんだなあ…
カラーページの枚数が違うのかしら?
香取海(原・霞ヶ浦)周縁の中期古墳から出土する滑石製石枕(常総型石枕)の材料って、常陸太田市東南部産の可能性が高いんですね。知らんかったです。驚き。水上交通メインの物流網でつながっていたとのことですが、久慈の豪族がどういった立ち位置だったのか気になるところですね
井博幸「長者屋敷遺跡をめぐる古墳事情」(日本窯業史研究所編『常陸太田市埋蔵文化財調査報告 常陸太田市内遺跡調査報告書第9集 長者屋敷遺跡第7次』常陸太田市教育委員会、2016年)を読む。
最高すぎる。久自国造を考えたい人は全員読むべきですね。長者屋敷遺跡の一帯は具体的な遺構こそまだ出ていないものの、久慈郡衙・郡寺の所在地が確実視されており、その前史を考える上でも古墳の動向は大事ですね。宿町古墳など、いままで未確認だった古墳も取り上げられ、興味ぶかいです。
ここでも崇神朝あたりの国造の祖について被葬者になりそうな古墳の有無を気にしたり、5世紀以前に各地方制度(国造制、部民制、屯倉制)が存在していたかのような理解を前提にしてそうな書かれ方をしたり、やや、素直に受け取ると汎用性が無くて困りそうな記述もありますが、全体としては勉強になります。常陸の全郡を検討してるのがすごいよ…
どの考古的事象が文献と合致しているかしていないのかの判断は難しく、なかなか線引きや比定はできませんね。だからこそ積極的に攻めてもらうとおもしろかったり。このくらいの厳密度が読みやすいとおもいました
千葉隆司「『常陸国風土記』にみる豪族たち(1)-ヤマト政権の地方豪族の動向を考える覚書 新治・筑波・信太・茨城・行方・鹿島郡-」(婆良岐考古同人会『婆良岐考古』第36号、2014年)、
千葉隆司「『常陸国風土記』にみる豪族たち(2)-ヤマト政権の地方豪族の動向を考える覚書 那賀・久慈・多珂郡-」(婆良岐考古同人会『婆良岐考古』第37号、2015年)を読む。
風土記の記述に在地勢力と外部(=ヤマト政権)勢力との関係を見出し、おもに古墳の盛衰からそれぞれの動向をさぐろうという論考
⼋上郡は曳⽥郷(疋田物部)、刑部郷(刑部造・刑部連)、若桜郷(若桜部造)、⽇部郷(日下部)、と物部氏族と重なる郷名が多いですね。他地域だと参河国碧海郡(依網、刑部、采女、大市、谷部)がそうで、国造が物部氏同族なのも共通するのが興味深いです
因幡国八上郡の意非神社の由緒、まず姓氏録右京神別の大炊刑部氏(同神=火明命三世孫天礪目命之後也)に社号の意非を大炊として引っかけることで付会し、天礪目命の先祖天火明命が旧事本紀により饒速日命と同一視されることを利用して、饒速日命後裔を伊福部臣古志で主張する宇倍神社社家(国造家)の伊福部氏とは同族だったんだといいたいのかな?と思ってましたが、どうかな~。矢を放ったのは武内宿禰とされるのも伊福部氏を意識してる感じがします。天饒速日尊じゃなく天饒日尊表記なのはなんでなんだろう
納得いってないのは若桜部の扱いで、千葉先生は考古学者のなかでは文献にも明るい方なのですが、ベースになる見解が古いような。国造制や部民制の開始を5世紀中頃とする説は1980年代には有力だったんですけど、いまそれに従うのはどうなんでしょう。志田諄一氏の影響かしら。今世紀に入ってからの有力説にも配慮していただきたいような気もします。若桜部は履中天皇の在位した5世紀に信太に置かれたというよりも、中央伴造が物部氏同族(書紀や姓氏禄に始祖物部長真胆連の伝承があります)であることにより、物部と軌を一にあるいは後続して6世紀に置かれたとみてよいかもしれません
風土記に普都大神の神話を載せる高来の里が現在の阿見町竹来だとすると郡北部が物部氏(物部信太連氏)の基盤地であることは動かしがたく、当然の帰結ではありますね。
木原白幡古墳群など島津郷域から高来郷、諏訪寺院跡の子方郷は西に隣接する位置で、6世紀の中心と7世紀の中心がやや移動しているようにみえますが、これは官道の整備にともない水運重視を改めた結果とおもいます。
普都神話も意外と、物部大連の後ろ盾があった時代だけでなく、大化以降の整理を経ているのかもしれませんね
千葉隆司「常陸国信太郡の遺跡と古代豪族 -霞ヶ浦南岸地方の古墳時代素描-」(婆良岐考古同人会『婆良岐考古 第31号』2009年)を読む。
信太郡盛りだくさんでたのしい。郷地域ごとに古墳が何基あって、うち前方後円墳は何%でって検討の後に、時代による変遷や規模の話をされてますね。わかりやすいです。その結果「良好なピラミッド構造」のなかの中心が島津郷で、ここを含む郡北部に蟠踞したのが郡領になる物部氏とのこと。諏訪寺院跡(阿見町追原)も物部氏の創建とみられるそうです。そうだったらいいなと自分で考えていたことが論文でピタリと合ってると気持ちがいいぜ…
このほかにも、
現地踏破をもとにされた 正岡睦夫「北条の古墳調査 -北条南部の古墳-」(『遺跡』45号)
残念ながらわずか5基の紹介になってしまった 常盤茂「北条平野の後期方墳」(『遺跡』41号)
おおきな可能性を秘める浅海地区の首長墳を取り上げる 井出耕二「北条地域の中期古墳」(『遺跡』42号)
を読めました。
越智と風早、国造が先代旧事本紀国造本紀によると物部氏系ということで、令制伊予国にふたつも物部国造国がある点が大変興味深いのですが、考古学的なことはほとんど知らなかったので勉強になりました
正岡睦夫「今治市・越智郡の中期古墳」(遺跡発行会『遺跡』第42号、2005年)を読む。
今治市の一帯は中期初頭の久保山古墳の後、6世紀になるまで前方後円墳が築かれず、顕著な首長墳と認められるのも樹之本古墳(径40mの円墳?)や根上り松古墳(27mの円墳?)くらいのもので、スッカスカですね。中期に大規模な古墳を築かない地域は多いですが、ここは特にひどい。畿内もしくは吉備の影響下、あるいは後者から前者に影響をおよぼす存在が移り変わるなど想定できますが、のちの物部氏族国造へつながっていく様子はほぼ見出すことができませんね
西村直人「風早平野の古代寺院」(『遺跡』同号)もコピー入手しましたが、風早郡は明確な白鳳期の寺院遺跡を確認できていないようです。見つかってないだけであるかないかはまだわかりませんが…
国造を出した風早直だけでなく、同族らしい物部首ものちに医師物部朝臣広泉を輩出するように解明的かつ有力なイメージがあるので、どこかに未発見の遺跡がないかな~とおもいます
正岡睦夫「東予北西部(今治市)の古代寺院」(遺跡発行会『遺跡』第49号、2015年)を読む。白鳳寺院の可能性があるのは中寺廃寺(大町廃寺)と他中廃寺ですかね。中寺廃寺のほうは伊予国府跡の可能性も指摘され、近年も発掘調査がされています。他中廃寺のほうは国分寺国分尼寺の前提になり、どちらも在地豪族の基盤地が奈良時代の重要施設につながっていくのが興味深いです。
どっちの豪族が国造(評造)?という問題は簡単には答えが出せませんね。後者が霊異記の白村江から生還した越智直の伝承と結びつける説はあるようですが、時期的に重なるというのが根拠なので何とも
今日のブラタモリはタモリさんの声がよく出てましたね。受け身じゃだめとかスタッフにいわれたのかな。自然体でいいんですけど
新城古墳群、石室が比較的良好に残ってるのは「古墳とかアレ」さんが紹介しているものだけかと思いますが kofuntokaare.main.jp/5goufun/page...
他にはもっと東側に道路に西半分を削り取られた一群(4基)があって、削られ残った石室が露出していたりするのだとか。ストリートビューには正岡氏調査No.43墳(松山商科大学調査23号墳、得居義治調査29号墳。統一してくれ…)が写ってますね
正岡睦夫「北条平野の古墳群(前)」(遺跡発行会『遺跡』第47号、2013年)、正岡睦夫「北条平野の古墳群(下)」(遺跡発行会『遺跡』第48号、2014年)を読む。
表題、「前」なら続きは「後」で、続きが「下」なら前編は「上」なんじゃないのか普通…ぼくの知らない常識が世の中にはいっぱいあるらしい。ぼくと同じ感覚の方は遠隔複写をされるなら間違えないようお気をつけて。
松山市新城古墳群についてがかなり詳しくて、過去の分布調査や正岡先生ご自身の実地踏査を踏まえた内容でわかりやすいです。全国Q地図あたりの立体地図と照らし合わせると墳丘の残ってる古墳の位置がかなりわかるので、現地を訪ねたい人にも有益かと