一輝(he/his)
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一輝(he/his)
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多治見。本を読んだり散歩したりします。 平和と平等と気候正義。フレキシタリアン。No hate. #FreePalestine 🏳️‍🌈 最近は仏教への興味が尽きない。本屋ひらきたい。
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なぜかずっと手に取らなかった木下龍也さんの歌集を初めて読んだんだけどただの天才だった。なんだこれ。すぐ他の著作も買い揃えそう。読書会したい
すぎる多様しすぎるのよくなさすぎる
ここまでOS的違いあったら見聞きするニュースだけで理解するの無理すぎるのでは。面白すぎる
初めてカントを学び始めてる(カントというか哲学全体を概論的に押さえようとしてる)。仏教哲学の構造とかなり似てるな。仏教知らなかったら全然ついていけないかも。

ひとつ気になる問いとしてまさかと思ってるんだけど、もしかして西洋人にとって「信仰がない」というのは善を行う根拠がないってことを意味して、すなわち信仰を持たないこいつは何をしでかすかわからない、みたいな感覚を持ってたりするんだろうか。
米粉で黒糖サータアンダギー揚げて見たけど油高温過ぎたのかしっかり焦げてつらい…あとベタベタしすぎて丸める時に材料めっちゃ減った…
『YABUNONAKA-ヤブノナカ』すごすぎて金原ひとみさんにやられたので入った本屋で見かけた『アンソーシャル ディスタンス』買ってきた。1話目からぐさぐさ
ばけばけ後いきなりSKY-HIさん出てきて幸。
いい朝。もう散歩で東に向かって歩くタイミングでは日の出は見られなさそう。方角も変わってきたし冬至への日々を感じる。雲が虹色に光るのなんなんだろう。
一度コーヒーをきちんと学んでみることに。なんでも理論を修めると解像度が別世界のものになる。初回だけでも相当淹れ方変わって今朝のコーヒーもぜんぜん違う印象。これから楽しみ。

ただひとつ講座スタートが19時半で昨晩終わったのが22時。月1のこととは言えあの時間にテイスティングするのは慣れる気がしないなぁ。案の定からだ重たい。
三宅香帆さんの『「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか』。第一部でその技術を要素分解して説明してくれるのだけど(約30P)、残りの第二部(約200P)はひたすらこれまでに三宅さんが書いてきた書評(ドラマや映画含む)が掲載されていて、それが面白すぎて完全に書評本としてしか読んでいないことに何度も気づく。気づいては「いやいや何をどう読んで書いているかに目を向けないと」と思うんだけどすぐに三宅さんの文章に絡め取られる。面白すぎてどの作品も読みたくなるし観たくなる。ほんと困る。
共感と冷静さの間で。慈悲と智慧(力)をどちらもっていうのはこのことか?
ちなみに方便と並んで重要とされる菩薩心。これはすべての命あるもの(一切衆生)を悟りに向かわせようという利他の決意のこと。

昨日の某選挙で当選された方も命あるもの。これも敵という固定化された概念にするのではなく、執着に縛られた固着した価値観から解放するという慈悲を持って臨むというのが仏教的実践ということになるだろうか。方便を模索し続けるしかないというわけだ。署名なのか、デもなのか、投票なのか。友人と話すのか。

でも生き死にの際にある人の声に対して憎むななんて言えないんだよな。怒りは否定出来ないし、自分にもある。でもまだ100%憎まなくても済む立場にいるからこそ出来る実践も多分ある。
日々を暮らすなかでこれが真理に至る方便だとはわからないままに手探りで生きていく、日常こそが修行とする考え方に繋がっているようにも思えるけれど、まだ少しジャンプしている気がする。

また、慈悲の実践を重視する哲学において、これが方便であると考えた瞬間にその手法への執着が生まれ、慈悲の実践という本質から離れていくことにもなる。途上で経る経験にとらわれることなく慈悲に努めることでのみ真実に届くということかもしれない。作為的なテクニックではないよということか。
虚空蔵院で最も強調されていたのは方便波羅蜜。仏になるために必要なのは菩薩性と慈悲と方便とも言われる程重要な思想らしいけどうまく飲み込めているか不安。

言葉的には真実に辿り着くために必ず必要な手法のことを意味するのだけど、真実に辿り着いた後でないとそれが方便だったとはわからないという点がややこしい。つまり実践者はそれと知らずに方便を行い、真理に到達して振り返ったときにこれが方便だったと知る。これはおそらくだけど、仏教においては固定的存在というものは存在しないため、真実もその例外とはならず、ひとりひとりにおいて形の異なる真理に到達する方法もまた異なるということだと一旦理解している。
例えば般若波羅蜜は煩悩を断ち切る決断をし道を切り拓いていく存在で、暗闇でも道を示す光として蝋燭に象徴されている。

例えば精進波羅蜜は努力することを司るが、仏教において努力は少しずつでも毎日継続することを重視しており、ゆっくり時間をかけて燃えていく線香に表される。

面白かったのは瞑想を司る禅波羅蜜で、茶碗一杯の米に象徴される。なんでも落ち着いて瞑想するためにしっかりごはんを食べようということらしい。

こういう使われているもの全てに意味が込められているの隙なくてめちゃ面白い。そう言えば蝋燭は照明でもいいと仰っていたけど線香は何か代替できるものがあるだろうか。ゆっくり変化して途切れないもの…。
大日如来が中央に描かれ、右半分(南)には智慧(=力)を司る存在が、左半分(北)には慈悲を司る存在が描かれていて、その全てが大日如来の特性をひとつひとつ表したもの。大日如来の上下(東西)には釈迦や文殊菩薩等重要な仏様が並び、虚空蔵菩薩もその位置に描かれる。

面白かったのはそれぞれの菩薩が日常生活出使われる道具に落とし込まれていて、それを見たり使ったりすることでその道具に象徴された菩薩を想起し修行を意識させるということ。日常を生きることがそのまま修行であるという実践の密教的エッセンスを強く感じた。
昨日は2度目の曼荼羅講座。先日僧侶の方と話した時に初めて参加したことを話したからか、これまでの内容をまとめてくださるパートを作ってくださり大変理解が深まった。有難い。

今回は胎蔵曼荼羅のラスト回、虚空蔵院について。虚空蔵菩薩は大日如来と同じ冠を被る、智慧と慈悲を兼ね備えた菩薩で胎蔵曼荼羅の肝とも言える存在。

そもそも真言密教は論理で積み上げられた仏教哲学を机上ではなく実践によって教える宗派で(密教に対し、論理を中心として積み上げてきたのが顕教。この論理の上に密教が発展した)、胎蔵曼荼羅にはその実践を表す仏様が要素分解して描かれていて、その姿形、手に持つ道具全てに意味が込められる。
ポッドキャスト『夜ふかしの読み明かし』の火の鳥読書会回を火の鳥読み進めながらちびちび聴いてるんだけど、合間に哲学回も少しずつ。「性格が良いってどういうこと?」の回で、対象の人に関してひたすら問題が提起されるけど、性格の良し悪しって関係性次第では。この相手には良い面が出るけど別の人には同じように振る舞えないなんてざらにある。それが誰しもに同じことができたらさとっているのでは。

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仏教哲学が苦しみから抜け出す哲学としてスタートしており、特徴が色濃く出る部分だと思う。だとして弱者が搾取される構造に怒りを覚え声を上げられる人たちを否定するものではないし、その声や行動に救われる人が多くいることも事実。しかし一方で仏教的思考が分断の抑制に繋がったり、運動の持続性を高めるものとなるのであれば、ヒントとして取り入れるのも悪いことではないように感じる。
それは敵味方をはっきりさせ、分断へと繋がる道だろう。

では慈悲からの行動はどのようなものか。まず固着化された現実に働きかけ物事を固定化から剥がすことで衆生を救おうとすること、この点はもしかすると怒りのモチベーションでも共通しうるかもしれない。
しかしその上で、無明にとらわれている相手を無明から救うというスタンスで臨んだ場合、そこに明確な対立軸は発生せず敵対関係から一方引いた視点を獲得し得る。また怒りから出発した場合も、時を経て慈悲モードに変容する可能性ももちろんあるはず。例えばガンディーの非暴力運動は民衆の怒りを別の視座へ導き敵を作らずに行われた活動と言えると思う。
善悪について仏教は、その行いが巡り巡って苦となるものを悪、楽となるものを善と判断する背景がある(かなりざっくり)。そして悪となるものの因や縁は大抵何かしらの執着に端を発していて、そしてその執着は物事に対して固定的な実在性があるという勘違い(根源的無知/無明)から生まれているよね、というのが仏教哲学の基本にある(と解釈している)。

では執着をモチベーションとするとはどういうことか。「こうあるべき」「こうでなければならない」といった固定的観念から明確な敵を作り、怒りから勧善懲悪的に発現する行動。それは煩悩的で、怒りからまた別の苦へと連鎖する苦を増やす危険性がある。
社会運動を仏教的に解釈するとどうなるんだろう。衆生の苦を少しでも軽減させる慈悲とも言えるし、それぞれが掲げる課題、主に何らかの人権に対する執着とも言えないかという問い。

どうやら、アウトプットとなる行動が同じだとしても、活動するにあたってのモチベーションの出どころによって解釈が異なってきそう。つまり、その活動が慈悲から生まれているのか、執着から生まれているのかが、善悪のグラデーションとなって現れる。
托鉢は無我であれば自分のものというのも思い込みであるということに拠る喜捨という考え方に依拠している。一方で後者は、この金額を投じれば自分(推し)の利益よ幸福に繋がる、信じていることにお金を投じれば自分は救われるのだ、という見返りを求める煩悩が働いている。この後者の姿勢は結果次第で後々苦とも楽ともなり得るある種の博打とも言えはしないか。うまくいっている内はよいが、何か異変が起こった際に足元から全てが崩れ落ちてしまう危険を孕んでいる。
ではこの考え方は社会運動に身を投じている人をどのように解釈できるか。
朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読んでいて、信じるものへの執着について考えを巡らせる。誰もが何かしらの物語に依存して生きていると何度も出てくるが、すべての物語を同質的に並列させることは些か乱暴さを感じる。仏教の托鉢(道に立って施しを募る)は、人々に余剰を分け与える機会を提供することでその人を豊かにさせるという修行だ。ものを手放せば手放す程豊かであるという考えの元行われるこの修行を考えた時、では推しに莫大なお金を投じることは豊かと言えるだろうか。また詐欺によって莫大なお金を投じることはそうと知らぬ被害者にとって豊かと言えるか。
ふいにコーヒーの香りが鼻先を掠める。実際に香りが漂っているわけではないのに、それを感じる。通常なら、ああコーヒー飲みたいな→香りを想像する、の順序だけど、それとは逆。まずコーヒーの香りの刺激がどこかから突然脳に現れて、意識がそれを後追いする。こう書くとなんだか依存っぽいな。身体と意識の関係。あの香りがどこから生まれるのか気になりすぎる。冬のコーヒーは最高。