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西洋美術に興味があります。クラシック音楽をたまに聴きます。好きなベルギービールはドゥシャス・デ・ブルゴーニュです。その日に生まれた画家と、僕が美術館で撮った写真を紹介します。
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1656年8月8日 サロモン・コーニンクがアムステルダムに埋葬される。1609年にアムステルダムに生誕。1630年から聖ルカ組合の会員だった。レンブラントと画商のヘンドリック・ファン・ウイレンブルクのアカデミーのサークルに属し、レンブラントの作品のコピーを作成した。彼の作品は温かみのある色彩を持つ。
《受胎告知》(1655)ハルウィル美術館
1882年7月30日 ジュリアン・オンダードンクがテキサス州サンアントニオに生誕。メリット・チェイスに学んで印象主義を身につける。「テキサス絵画の父」とも呼ばれるアメリカ印象派の画家だった。
《曇りの日、テキサス、サンアントニオ近くのブルーボンネット畑》(1918)
1889年7月29日 ウバルド・オッピがボローニャに生誕。独学で絵を学び、1906年にウィーンに行き、一時クリムトの弟子になる。パリでは、モディリアーニや未来派のジーノ・セヴェリーニに影響を受ける。彼は、帰国後、ヴェネツィアを中心に教会のフレスコ画なども手掛けながら、マジックリアリズムをはじめ二十世紀初のイタリア絵画のリーダーシップを取る。
《ヴェネツィアを背景にした画家の妻》(1921)
1868年7月27日 ジョルジュ・モレンがベルギーのエケーレンに生誕。アントウェルペンでエミール・クラウスにルミニスムを学んだ。パリで、カリエール、シャヴァンヌ、アルフレッド・ロールに学んだ。彼は、アントウェルペンに戻ると、二十人会に倣って、美術展を立ち上げ、自らの新印象主義の絵画を披露した。
《新婦》(1892)
1846年7月26日 ヘルマン・フォン・カウルバッハがミュンヘンに生誕。ヴィルヘルム・カウルバッハの息子。歴史画家のピロティに師事し、歴史画を描くようになる。アカデミーの歴史画の教授になるが、同時に絵本の出版や、子どもの肖像を多く描いたため、子どもの画家として知られるようになった。
《かわいい手伝い》
1781年7月25日 メリー・ジョセフ・ブロンデルがパリに生誕。磁器の絵付け工房で修業したあと、ルニョーに師事した。ローマ賞を取り、ローマで学んだあと、帰国。パレ・ロワイヤルやルーヴル宮殿を始め、多くの宮殿の装飾を行った。1832年にアカデミーのメンバーに推薦され、高等美術学校の教授に任命された。
《麦わら帽子の若い女性》(1830)
1843年7月24日 エウジェニオ・デ・ブラースがローマの南アルバーノに生誕。父はオーストリア出身の画家で、その後ヴェニスのアカデミーの教授となったため、彼に学び、自分も同職を得た。肖像画などアカデミックな画題のほか、イタリアの風俗を甘く美しく描き出している。
《浮気者》(1904)
1860年7月23日 ゲオルグ・エーシェンがコペンハーゲンに生誕。王立アカデミーでデンマーク国民的ロマ主義の風景画家のヴィルヘルム・キーンに学んだ。アカデミーに対抗して作られた自由学校でクロイヤーに学んだ。ハンマースホイの影響を受けており、家族の後姿の肖像を室内で描いている。
《オールドリセルンド城の夢の窓》(1903)ARoSオーフス美術館
1821年7月22日 チェーザレ・デラクアがトリエステ近くのピランに生誕。ヴェネツィア美術アカデミーで学ぶ。その後、ブリュッセルに移り歴史画を描くようになった。やがて伝統的なギリシャや東洋の画題も描くようになった。
《トルコの美人》(ca.1869)
1870年7月21日 エミール・オルリックがプラハに生誕。ミュンヘンの美術学校で、浮世絵にあこがれて、リトグラフやエッチングを学ぶ。1900年に日本で多色刷りの木版の技法を身につけた。ウィーン分離派展に日本を主題にした版画を出展する。
《日本の木版職人》(1901)
1847年7月20日 マックス・リーバーマンがベルリンに生誕。筆触の荒いドイツ印象派の代表画家。ベルリン分離派の創設者であり、オランダ、パリで印象主義を学んでドイツに伝えた。ユダヤ人であり、ナチス政権下で不遇で亡くなる。
《画家のアトリエ》(1902)セントガレン美術館
1834年7月19日 エドガー・ドガがパリに生誕。印象派画家とされるが、アングルを規範とし屋外の光の表現はない。パリの社交場などの一瞬を捉える写真のような作風が新しかった。バレエダンサーの絵も多くパステルの《エトワール》は名作である。
《エトワール》(1878)オルセー美術館
1760年7月18日 フィリップ・メルシエがロンドンで逝去。1689年にベルリンに生誕。ベルリンで肖像画家アントニー・ペスネに学ぶ。彼は、は、20歳でロンドンにハノーヴァー宮廷の指示で移住。プリンス・オブ・ウェールズ フレデリックの宮廷画家、ライブラリアンとなる。
《猫を抱く少女》(ca.1750)スコットランド国立美術館
1846年7月17日 カスト・プラセンシアがスペインのマドリッド東方170kmほどのカニサレスに生誕。その地の貴族たちの支援で、マドリッドのサンフェルナンド王立アカデミーに学んだ。ローマのスペインアカデミーに奨学金を得て留学した。彼の《ローマ共和国の起源》(1877)はスペインの芸術万博で一等賞、パリ万博で三等になり、華やかな画家デビューをした。スペイン北端のアストリアスのムロスが気にいり、ここで外光主義の画家たちを集めたコロニーをつくった。
《ローマ共和国の起源》(1877)プラド美術館
1796年7月16日 ジャン=バティスト・カミーユ・コローがパリに生誕。詩情あふれる風景画で知られるが、《真珠の女》のような人物画にも傑作がある。13度イタリアへ旅行し、イタリア絵画の明るい光と色彩にも影響を受けている。イタリアやフランス各地のありふれた風景を詩情ゆたかに描き出す手法はのちの印象派の画家たちにも影響を与えた。
《アルジェリアの女》(1871-1873)
1606年7月15日 レンブラント・ファン・レインがライデンに生誕。バロック時代の最も偉大な画家でのひとり。聖書の物語を主題にした絵を多く描いており、その解釈で彼の独自性が遺憾なく発揮されている。版画では、自由闊達な表現を行っている。バロック時代の最も偉大な画家でのひとり。
《夜警》(1642)アムステルダム国立美術館
1750年7月14日 ピーテル・ファエスがアントウェルペン州のミーア村に生誕。アントウェルペンのアカデミーで花の画家として学んだ。アントウェルペンの芸術協会の設立者の一人であり、1789年の初の展覧会のプロモーションなどに尽力した。
《豪華な花の静物》(1770-1814)
1597年7月13日 セバスチャン・シュトスコプフがストラスブールに生誕。ドイツ語圏で最も重要な静物画家のひとりであった。とくにグラスを描いている。パリやヴェネツィアで活動しており、ストラスブールに戻る。その後、ナッサウ=イドシュタイン候の支援を受け、イドシュタインで活動し、そこで亡くなった。
《グレート・ヴァニティ》(1641)ルーブル・ノートルダム美術館
1884年7月12日 アメデオ・モディリアーニがトスカーナのリヴォルノに生誕。パリモンマルトルでエコール・ド・パリの画家として、顔や首の長い民族彫刻の影響を受けた人物画を描く。ギリシア建築のカリアテッドも彼の造形の出発点である。
《子供とジプシー女》(1919)ワシントンナショナルギャラリー
1839年7月11日 ウィリアム·ジョン·ヘネシーがアイルランドトーマスタウンに生誕。ニューヨークで画業を始め挿絵などを手がけた。アメリカ水彩画教会の名誉会員、イギリスでは王立水彩画アカデミー、アイルランドのアカデミーなどに属し活躍。
《秘密》(1889)紙にパステル
1823年7月10日 サンフォード・ロビンソン・ギフォードがニューヨーク州グリーンフィールドに生誕。ニューヨークのナショナルデザインアカデミーで基礎的な技法を学んだ。ヨーロッパを旅行中にアルバート・バイアスタットなどと知り合った。ハドソンリヴァー派の風景画家。太陽の光が大気でかすむ様子を表現する研究を続けた。彼の絵からはまばゆい光が感じられる。
《コモ湖》(1878)マンソン・ウィリアム・プロクター美術館
1441年7月9日 ヤン・ファン・エイクがブリュージュの聖ドナティアン教会の墓地に埋葬された。1390年ごろの生まれで、おそらくマースエイク出身だと考えられている。フィリップ善良公のブルゴーニュ公国で活躍した。油彩画の技法を確立し、宝石をちりばめたような画面の絵には驚嘆するばかりである。
《アルノルフィーニ夫妻像》(1434)ナショナルギャラリー
1593年7月8日 アルテミジア・ジェンティレスキがローマに生誕。ジェンティレスキがローマに生誕。オラツィオ・ジェンティレスキの娘で、十代ですでに艶めかしい女性の絵を描けた天才画家。アゴスティーニ・タッシからの暴行の裁判でさらに暴行を受けた。その恨みを込めるようにユーディットの絵を描くようになる。
《アレクサンドリアの聖カタリナとしての自画像》(1615-1617)ナショナルギャラリー
1844年7月7日 ジョージ・ウィリアム・ジョイがダブリンに生誕。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートでミレイやレイトン、ワッツに学んだ。パリに二年間滞在したあと、ロンドンに戻ってロイヤル・カレッジ・オブ・アートなどで展覧会を行った。
《フローラ・マクドナルドのボニー・プリンス・チャーリーへの別れ》
1876年7月6日 アンリ・カロ=デルヴェイユがフランス南西部バイヨンヌに生誕。パリでレオン・ボナに学んだ。1899年にパリのサロンに初めて出展、1901年に3等メダルを獲得した。1905年、彼はミュンヘン国際展示会で金メダルを獲得した。1917年から1925年まで米国に滞在した。肖像画、ヌード、風景、装飾パネルを得意とした。
《マダム・シモーネの肖像》(1908)ストラスブール近現代美術館