Ichiro Kishimi /岸見一郎
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Ichiro Kishimi /岸見一郎
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Philosopher, Author of “The Courage to be Disliked” 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(ダイヤモンド社)など著書多数、最新刊は『悩める時の百冊百話』(中公新書ラクレ)
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検査結果に問題はなかった。今の循環器内科の主治医は三人目。12月に退職するというは話を今日初めて聞いた。
朝、電車に乗ったら本を読んでいる人を何人も見かけた。皆がスマホを覗いているわけではない。
いつかキム・ヨンスの『世界の果て、彼女』を読んでいる人を見かけた。ハン・ガンがノーベル文学賞を取る何年も前の話だ。話しかけたくなったが、もちろんそんなことはできなかった。
循環器内科の主治医の系列病院への移動が決まった時、ついてくるようにといわれた。研究と臨床に余念がなく、病院の医師紹介のベージには「生涯一カテーテル医」と書いてあった。
政治家として有能かどうかだけが問題で、趣味や人柄などは関係がない。ドラマを観る時間はあるのですねといいたくなる。
今朝は5時半に起きて受診のために京都まできている。入院したのはもう20年くらい前のことになる。回診後病室に寄ってくれる主治医と毎日長く話し込んだ。「本は書きなさい。本は残るから」といわれ、退院後は、毎日原稿を書いている。
愛も尊敬も強制できない。愛国心も。
今日も『自省のすすめ』(筑摩書房)の校正。後は参考文献だけ。適格な指摘も多く、気づいていなかった誤りを訂正できてよかった。流れが悪くなる、また、似たような文章であるという理由で(実は違うのだが)削られたりしたところがあったが。流れが悪くなろうが、緻密な議論なので修正案を不採用にしなければならなかった。私の校正だけがこんなに直されるのかといつも思ってしまう。
2024年に『悩める時の百冊百話』(中央公論新社)を出した時は、校正を頑張りすぎて、帯状疱疹になり、何ヶ月も激痛の中で生きることになった。無理しないよう、今日は校正はここで止めておこう。
八年後に小惑星衝突という予告がされて五年。
「自分のことしか考えていなかった政治家はそろって辞めてしまい、残っているのは、使命感を持った少数の政治家だけになった」(伊坂幸太郎『終末のフール』)
「もしひとがいくらかの権力を持っているとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであろう。部下を御してゆく手近な道は、彼らに立身出世のイデオロギーを吹き込むことである」(三木清『人生論ノート』)
今の時代も、「成功主義者」の政治家しかいないのか。
「成功主義者が非合理主義者である場合、彼は恐るべきである」(前掲書)
ありがとうございます。
インドネシア語に翻訳されている本が何冊かあって、(オンラインですが)インドネシアの人の前で講演をしたことがありました。インドネシア語は若い頃、少し勉強したことがあります。講演の時に少しインドネシア語で話したら喜んでもらえました。
このところ、取材が多かった。日経ビジネス、日経クロスウーマンなどの雑誌、また台湾、中国の出版社などの取材、動画撮影など。午前に仕事が入ると、午後は原稿が書けなくなるほど疲れる。
『「普通」につけるクスリ』(サンマーク出版)の翻訳が出版される(タイトルは『自在感的練習』)。5月に出した本なのでもう翻訳が出ることに驚く。入稿直前だと思うのに、表紙の文言を変えたということで確認依頼のメールが届く。
今日は膳所へ。パスポートを受け取りに行った。2月に失効していたので。前回は有効期限を5年にするか10年にするか迷ったのだが、今回はためらわず10年に。
「ガンの群れを連れてドナウの河岸を歩きまわってみたまえ。まったく良心の呵責なしに怠けていることができる。なぜなら一日の八分の七をひなたにねそべって過ごせるからだ」(コンラート・ローレンツ『ソロモンの指輪』)
勤勉の象徴である蜜蜂や蟻でさえ、一日の大部分は何もせずに過ごすとローレンツはいう。人はいつも何かをしていないと気がすまないように見える。
昨日、予定より一日遅れて届いた『自省のすすめ』のゲラ(再校)に取り組む。校正はいつも神経をすり減らす気がする。長い時間をかけてゆっくり考え書いた文章を校正のために短時間で集中的に読み返すからだろう。今日で二日目。校正者の鉛筆書きは全部目を通せた。修正の採否を決められない箇所がたくさんある。
校正の到着を待つ間に、アリ・スミスの『秋』を読んだ。眠り続ける老人と傍らにいる若い女性の話を読み、長く眠り続けて逝った母のことを思い出した。今日はもう校正を続けられそうにないので、同じアリ・スミスの『両方になる』を読み始めた。
ペルシア戦争の英雄であるペリクレスについて、次のような話が伝えられている(プラトン『国家』)。ある小国人がテミストクレスに向かって、あなたの今日の名声はあなた自身の力によるものではなく、たまたまあなたがアテナイのような国に生まれていたからだといって、彼の名声にけちをつけようとした。
その時、テミストクレスは、なるほど私が君の国に生まれていたのでは私は今日のような名を成すことはでききなかったかもしれない、しかし、君がアテナイに生まれていたからといって、私のような名が得られるとは限らないだろうと答えた。
今日は台湾の出版社のインタビューを受けた。『「普通」につけるくすり』の台湾での出版にあわせて公開されるようだ。最近は、朝食後、すぐにまずキム・ヨンスの『四月のミ、七月のソ』、その後、陳夏民の『失物風景』を読み進め、その後、自分の原稿を書いている。『失物風景』は台湾に行った時、編集者さんにもらった。最近、ようやく少し読めるようになって嬉しい。繁体字で書いてあると、辞書も引けなかったのだが、LingQで繁体字の中国語コースを一年ほど続けた成果である。
私は、マルクス・アウレリウスの『自省録』は本の中でもよく引用し、『自省録』を紹介する本も二冊出している。引用は、既訳ではなく、ギリシア語のテキストを自分で翻訳している。翻訳のためには欧文のコメンタリーを参照し、正確を期す努力をしている。それなのに、私に『自省録』の「超訳」(ゆる超訳、らしい)の監修を依頼するメールがきた。すぐに断りのメールを書いた。編集部が訳すらしい(どうやって?)。一読してすぐにわかるような古典などないと思うのだが。
近く刊行予定の本の解説を依頼された。読んで見ないことには書けるかわからないので、ゲラを送ってもらった。意味が取れないところが多々あるので、原書を見てみたら誤訳だった。理解できないからか訳されていないところもあった。原著はかなり分厚い本なのだが、ページ数を減らすために、あちらこちらが削除されている。
私の本も海外で翻訳出版されているが、こんなふうに勝手に削除され、その上、誤訳されていたら困ると思ったのだが、韓国語や中国語の勉強をしようと思った動機の一つだった。
今年は韓国語の本をたくさん読んでいる。今は、キム・ヨンスの『四月のミ、七月のソ』)。熱心に読んでいるからではないだろうが、googleでキム・ヨンスを検索したら、AIによる概要に僕の写真が出てきて驚いた。誰、これ?と思われているだろう。信頼できないAI。
『自省のすすめ ひとりで考えるレッスン』の初校を戻した。今月末が締切だったが、早く戻せてよかった。この間、一週間、右腕が動かず難儀したのだが。自分で考えないことや、知らない間に人の考えを自分の考えと思っていることの問題などから始めて、この人生をどう生きるかという話まで論じた。
の痛みは治まった。右手は動せないが指は動くのでキーボードを打とうと思っても、右手をキーボードまで運ぶことが困難だった。カルシウムが溜まっていて、炎症反応を起こしているということだった。薬剤師さんによると、いつも飲んでいる薬と一緒に飲むとよくないようなので痛み止めの薬を飲まずに痛みを凌いだ。今日は『自省のすすめ』の校正。
森有正がアンドレ・マルローの本を読み始めたと、ある日の日記に書いている。この本は誰かが日本語に訳すだろうかというフランス人の問いに「きっと訳すだろうが、私なら、この本を訳すよりは、この本を本当に読むためにフランス語を勉強し始めることを奨める」と書いている(『砂漠に向かって』)。
「こういう本を読むためには、フランス語の勉強に十年かかっても決して長すぎはしないし、まだ無駄でもないのだ。ただ十年位学んでも読めるようになれない確率の方が遥かに大きいのだが」(前掲書)
若い時、私はプラトンの対話篇を読むためにギリシア語を学び始めた。あれから何年経っただろう。
右肩が痛くて腕が上がらなくなった。普段、キーボードしか使わないので、ゲラにApple Pencilで書き込む作業を続けていると無理な力がかかったのだろうかと思ったが、たぶん、そうではないだろう。孫がAIと話しているのを聞いてしまった。「じいじは仕事が好きすぎて、ずっとしています」。仕事のしすぎなのだ。
校正中。今校正しているのは三校だが、再校での直しが反映されているかチェックするところから始める。再校から三校になった時に指示していない書き換えがあるのに気づき、見つけ出し訂正するのに苦労している。いつも思うのだが、絵画だったら決して色を変えたりはしない(できない)のに、文章だったら手を加えていいと思っている編集者や校正者は多い。
手元にゲラがある。『誰にも支配されずに生きる アドラー心理学実践編』(幻冬舎新書)と『自省のすすめ ひとりで考えるレッスン』(ちくま新書)。前者はもうそれほど手を入れなくていいが、後者は少し手を入れ始めたら、すぐには終わらないことがわかった。校正をしていると、原稿を書きたくなる(書いているけれど)。