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@fumitaka1948.bsky.social
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Ми ся любит Карпатьска Русь. Єден русинофіл.
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ジョン・ブルーノ監督の『ヴァイラス』(1999年)はロシアの科学調査船に電磁波でできた宇宙人がとり憑くという話ですがロシアの研究員が右手ではなく左手に結婚指輪を嵌めてしまっている。
昨今では藤本タツキ先生の『チェンソーマン』のゲストキャラがソヴェト同盟に送り込まれた暗殺者であることで賑わっていますが、僕はスターリンとかカルパチア・ルーシのような特異な話題に終始している人間なので、ロシアの慣習では右手に結婚指輪を嵌めることに気がついたのは確実にかなり最近のはずです。
宗教団体が政治権力と結託するというのはゾラの『プラッサンの征服』みたいで面白いですが絶版なので論創社は復刊してほしい。
カリーニングラードからケーニヒスベルクへの改名は何回も提案されているようだが、現行の地名の維持を支持する現地民は、カリーニングラードという地名自体が「戦後復興」というGründungsmythosと結びついていると主張しているとのことで、この辺の事情はカルパチア山麓部と異なっている。
現在のポーランド地名委員会が「ケーニヒスベルク」と躍起になって表記する理由については、その地名が「ソヴェト施政後に設定された人工的なもの」という点に加え、カリーニンが「カティン虐殺の関係者だから」とのことで、確かに後者については平頂山事件の関係者にちなんだ名前を設定したりすれば紛糾を呼ぶでしょう。
婉曲的な言い方で言っても通じない相手には率直に「馬鹿」と言いたくなるがそれはそれで悪手であるため「馬鹿」と言ってはいけないのだが「自分はモスクワよりサンクトペテルブルクが好きだ」という話と「地球温暖化は嘘で氷河期に向かっている」とほざき出すのはレベルが違うため後者に対しては馬鹿で蛆虫と言いたくなることもありますが言うのがあんまり良くないのが難しいところです。
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頭を抱えています…
やはり対話不可能レベルの脳みそは周囲(本人がそう思ってるもの)の意見に流されるしかないので、周囲の空気を変えるしかねぇ…
今から後輩の頭を良くするなんて無理だが、せめて無害化したい。社会に対して。
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実は頭が悪過ぎて危険思想に染まりそうだった母校の後輩を自分のディスコで早めに囲っていて、以前から排外主義的(どっかで聞き齧った)思想を一言二言垂れ流していたけど、遂に先日ちょうど会話してる時にそれが発動したのですかさず諌めた。更に「帰ってきたヒトラー」を観たということで模範的な感想を出してきたので、「ヒトラーが危険だと思うなら自身の言動はどうですか?」という趣旨をもっとオブラートに包んで内省を促したが、頭が悪過ぎて歪曲表現は通用しないし、割とストレートに言ってもやはり文章を読めないので
「最初の事に関して怒られてる」としか思えないらしく、「もっと良い感想文書きます」が結論になってしまった
「あんな連中に票が入るということは逆説的だが日本の投票制度が機能しているということだろう」といつだか政治学の先生がおっしゃっていたことだけは覚えていますがまあロシア内戦中にノンポリの暴利屋やチンピラが続々と「ブルジョワからの収奪」に参加したという出来事が汎人類的な現象であることだけは明確になりましたのでそれは良いことです。
一世紀に一度くらいは政権与党の失態や権威失墜によってではなく競争相手の有能さによって政権交代が起きるという様子を見たいものですが大倭豊秋津洲の文化がそれが向いていないということなら諦めるほかありません。
スターリン主義みたいな一党制システムだと、政権与党のほかにブロック政党が存在を許されている場合があり、ポーランド統一農民党や東ドイツのキリスト教民主同盟などが政権与党を輔弼するためのみに存在していたわけですが、僕は最近某国で連立から抜けた政党についても似たような感想を抱いており、政権与党が何をやっても従うだけの案山子だとばかり思っていたものですから、ジェスチャーにしては大掛かりなことをするものだと驚きました。
ニェーメツ語wikiだと東ドイツの例については「反ファシスト民主ブロック」の名目だったとしている。スターリン式選挙と同じくらい「そんな面倒な演出をする必要があるのか?」と思うやつです。
ヘドルンド先生の‘Russia Reverts to Muscovy’で、この辺の、ロシア連邦が正式には行政的にソヴェト同盟の一部に過ぎなかったにもかかわらず、ソヴェト同盟全体の別名として「ロシア」を用いる人々が一定数いた(い続けた?)という現象について触れられていないか期待していたがそういえば触れられてはいなかった。
自分はソヴェト同盟が事実上ロシア帝国の後継国家であったと考えており、ロシアを「ソ連」と呼び表す行為にはその「逆」よりも違和感があるが、ゴルバチョーフが最後に、第一次大戦中の在外ロシア人資産家の出資金をソヴェト同盟が返済したという事件がどのように位置づけられているのか知らない。
英語で「チェコ共和国」という呼び方があっても「チェコ」だけの通称はチェコスロヴァキア解体まで存在しなかったというのは知らなかった。
チェコ語で「ボヘミア」にあたるČechy自体の語源はčlověkという、ウクライナ語やカルパチア山麓部のчоловікやポーランド語のczłowiekと同じ語らしく、「人間」がある種の「集団名詞」になった点では「アイヌ」と同じだ。
それにしてもチェコ人はチェコスロヴァキア解体に至るまで「チェコ」と「チェコスロヴァキア」をあまり区別していなかったというのは、「ロシア」とソヴェト同盟とをあまり区別していないロシヤ人が一定数いたという話を思わせる。
塩川先生がHPで公開されている書評だと、和田春樹先生の『スターリン批判』の書評の後半部の、ソヴェト社会主義諸共和国同盟をどう訳すべきかというくだりがすごく好きでして、ボリシェヴィキの作る新しい国体が、国家連合の形をとるか連邦国家の形をとるか議論があったという点は先生の『多民族国家ソ連の興亡Ⅱ 国家の構築と解体』でも触れられているんですが、最後の最後になってコンフェデレーションともフェデレーションともいえない、廃れた訳語である「同盟」が適当に感ぜられるような状況が生じたのが「一種の歴史の皮肉である」というのがあまりにも美しくて何回も読み返してしまいます。
結局のところチェコスロヴァキア第一共和国がチェコ人を中心に据えた構造を最後まで調整できず、スロヴァキア人やドイツ人、そしてルシーン人を真に統合できなかった点は、「前身ハプスブルク帝国のそれと同じく荏苒であったように見える」(P. R. Magocsi, “With their backs to the mountains”, 2015, CEU Press, p. 194)。
その期限はチェコ側の動向とは無関係に訪れることになり、「すべてはソヴェト同盟とその全能の指導者イオシフ・スターリン次第になった」(“With their backs to the mountains”, p. 293)。
„Já nemám rád prázdné mluvení o slovanství, jako nemám rád vlastenčení... A nač to mluvení: normální člověk nevytrubuje do světa, že miluje své rodiče, svou ženu, své děti; to se rozumí samo sebou.“
(„Hovory s T. G. Masarykem“)
「チェコスロヴァキア主義」はチェコ語でČechoslovakismusだがスロヴァキア語では語尾が-zmusとзの音になり、ロシヤ語に似ている。
「私は、愛国者ぶることが好きでないのと同様に、スラヴについての空虚なおしゃべりは好きではありません。我が国のスラヴ主義者のうち、一体どれだけの者が、せめてロシア語、ポーランド語、セルビア語を読めるでしょうか? 我々はフスの民族なのだと唱えてばかりいる人々とて、同様です。彼らのうち誰が、フスをせめて少しでも読んだでしょう、……同胞団の宗教改革のせめて一冊の本を読んだでしょうか? ……普通の人は、自分の両親や妻や子供を愛しているということを、世界に向けてかまびすしく喧伝したりはしません。それは当然のことだからです」
(チャペック『マサリクとの対話』石川達夫訳、成文社、pp. 94-5)
戦後オーストリアの大連合も55年体制も「共産化を防ぐ」とそれから「現状維持」を大いに志向していたのであり、大倭豊秋津洲のそれについては新大陸からの潤沢な資金援助が地盤を支えているという特殊な要素があったことをアメリカの日本史学者の人でさえ指摘しており、政治の世界に「現状維持」よりも緊張感が戻ってくるということ自体は必ずしも悪いことではないと思いますが、多元主義と意見のスペクトルが制度的に認められている場ではこういった事態も起こりうることは今の状況を招いた人々もよくご存じだったものと思いますので、まあお手並み拝見と行くか。
少なくとも選挙制度がある国体においては政治家には常に地位を失いうるという緊張感がないと駄目になるらしいというのも事実ではあります。
まあオーストリアも戦後に「一党優勢を防ぐ」という名目で社民党と国民党(だったっけ)の連立政権がずっと続いていたら各地で癒着や腐敗が始まり案の定その中にはナチの残党が紛れ込んでいたりして我がオーストリア文化史の先生なんかは「日本人に気質が近いのはドイツよりこっちじゃないかと思うこともある」と評されておられたわけですが先生が何年か前にお亡くなりになられたのが残念だ。
独立直後のポーランドで、特に自由業の就業者で「ユダヤ人が極端に多くを占めている」ことから南アメリカなどへの移民を推進していたとかには、戦後にマルクス・レーニン主義という「異質」な教義が蟠踞しても根絶しえなかった根強い土俗的な感情が確認できる。
チェコとかでユダヤ人の生存者が帰って来たら自分の家に近所の人が移り住んでいて「どうして今さら帰って来た?」という温かい言葉をかけてくれたという話は嘘ではなさそうだ。
僕が気になっているのは国粋社会党の掲げていた偏見がどの程度ヨーロッパにおいて普遍的で、どの程度基準を逸脱していたのかということです。
『1944年から1956年のポーランドの反共主義地下パルチザンの精神性』
『1918年から1939年の植民地世界秩序におけるポーランド、調整と大望』
買いたい洋書の名前を書くだけなら自由だ。
我がウクライナ史の先生によれば、ウクライナ方面の反共パルチザンの残党にもフルシチョーフが投降を呼びかけるビラを戦後にばら撒いており、少なくとも1950年代後半まで刷られていたらしく、ソヴェト同盟と周辺諸国で部分的に共通していたのではないか。
戦後ルーマニアの当局も、逮捕した人に標石を抱かせて池に沈めたり、冬場に水を浴びせてコンクリート張りの部屋に放置したりなど、被疑者の人道的な処遇に気を配っていたようだ。
『ドイツ植民地研究』、我が第二の指導教官が述べられていた「ドイツ領アフリカのどこかでは現地人にマルクスとかを読まれて『平等』などという厄介なことを言い出されないようドイツ語でなく英語を連絡用言語として教えていた」という話が触れられているだろうか。先生にメールを出せばいいんですが一応書籍で手元に置いておきたい。「植民地経営というのは色々と考えることがあって大変だな」と他人事のように思ったお話でした。
戦後にスターリンがバルト地域の「森の兄弟」とかを力ずくで破砕しようとしても成功しなかったがフルシチョーフが「武器を置いて出てくるなら恩赦を与える」と布告を出したら壊滅したというのが印象的な話です。
チェコスロヴァキア第一共和国によるポトカルパツカー・ルス領有について、マサリクは「将来の民主的なウクライナもしくはロシアとの地理的接点」となると強調し、ソヴェト・ポーランド戦争でガリツィアなどがポーランド領になったことで結局その想定はなくなったわけですが、1938年のミュンヒェン協定で、チェコ領の町チェシンがポーランドに割譲され、戦後の国境線の修正においてポーランド人地区と「チェコ人の(Český)」チェシンとに分割されるという出来事があり、現在チェコ側では町の中でチェコ語とポーランド語の二言語表記が採用され、そこは今でも一言語表記のポーランド側とやや色合いが違っているようです。
イヴァン・ステパーノヴィチ・コーネフ元帥の写真がシュヴァンクマイエルの「スターリン主義の死」に映るのは知っていたが、実際にプラハに像が(複数?)あるらしく、そのうち「国際旅団広場(Náměstí Interbrigády)」に建っていたものは、反共主義のデモンストレーションのたびに赤いペンキで汚損されたりした結果2020年に撤去された。
その際にはコーニェフがハンガリー動乱の鎮圧にも参加したことなどが問題になったらしいが、複数の論者によれば、当時チェコ政府もソヴェト同盟に「ハンガリー占領への協力(チェコ軍の派遣)」を提案しており、これまた「社会主義」とは関係のない根深い土着の感情が垣間見える。
「プラトンが生きたのは民主制のポリス社会であり、彼の思索は古典期ギリシアの政治・社会・文化に深く根ざしていた。ローマ帝政期の新プラトン主義者にその背景や関心が共有されなかったのは当然である。……〔プラトンは〕積極的な政治関与を模索していた。このような実践的な関心や提案は後世の読者には理解困難なものであり、プラトンにとって現実的で切実な考察は抽象的な理論として受容されざるをえなかった」
(納富信留「プラトン哲学の徹底と逸脱」。『新プラトン主義を学ぶ人のために』世界思想社、2014年、pp. 19-20)
結局のところ競争相手が世論を味方につける努力をして来なかったからで嫌なら勝てばよいのだということについてはまあ反論しようとは思いません。
マサリクの観点では、「何の説得もせず」、カルパチア・ルーシの代表者に「ハンガリーか、ポーランドか、我々かに加わることができます、ご自分で選んでください」と訊ねたところ、「我々を選びました」としているが、しかし、ルシーン人の出自を持つアメリカの弁護士で、チェコ政府の招聘でポトカルパツカー・ルスの知事となったグレゴリー・ジャトコヴィッチが、ポトカルパツカー・ルスの自治を巡ってプラハ政府と争いになり、結局「民主制の未成熟」を理由にアメリカへと帰国してしまった件についても触れられてはいない。