名越康文
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名越康文
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の無軌道な魂のほうです。よろしくお願いします。
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あらゆる思想は、社会を変える実効性がないことは証明されている。これは仏教と言えどもそうだ。ならば個人の変換を目指す思想以外には意味がないことは明確だと思うのたが、人間はあわよくは他人を動かして得をしたいと考える。だから社会思想は無くならない。くだらない。
眠りは、新しくしてくれる魔法だ。時に残酷だが。
そして怠惰は冷酷というしもべをたえず使いこなす。
権力というのは最も怠惰な神である。
仏陀が占い🔮しても当たらなかったというのは、日頃の判断を誤らなかったからだろう。
不安や怒り💢で彩られた判断は誤る。しかしもっとやばいのは冷酷さ、だ。つまり占いとは人の不安や怒り、強欲や冷酷さの波🌊の集積を読んでいるのだ。
そしてこれらの動きは極めて法則的だ。だから🎯当たる。
時代はカオスだ。カオスにおいて誇り高く生きるとは何か。
SNSは決して断片的ではない。それが今までのメディアと異なる点だな。
ルールのすべては自然法則ではない。つまり信頼によってリアルさが保証されている。それが変更や曲解を被ると、もうその瞬間にすべて色褪せ、それがただの一つの可能性に過ぎなかったということがばれる。
人間は自分たちによる自然を作り出している。その何と弱々しいことよ。
だからこのタイミングでそれを侵すべきではない。
思想は社会においては未熟である。そのことには大きな意味があるが、未熟であることを布石しておく必要がある。
国民の方が有事について念頭に置いている。しかも,口に出さずに。メディアや党派より2周ほど現実を深く見ている。この大衆の沈黙をだれが醸成したのか。
あらゆる思想は、社会を変える実効性がないことは証明されている。これは仏教と言えどもそうだ。ならば個人の変換を目指す思想以外には意味がないことは明確だと思うのたが、人間はあわよくは他人を動かして得をしたいと考える。だから社会思想は無くならない。くだらない。
政治は結局、やれることとやれないことの区別だと思う。そのセンス。
党派的な意見を見ると、さみしくなってしまうのは、人が見えなくなるからだろうか。とにかくざわざわしてしまう。これは自分の深いところにある異常事態なのだろう。
人生は何かを成すには息が切れ、何も成さないのであれば長過ぎる。何も成さない生き方は時勢と他人の都合に日々振り回されて煩雑に過ぎるからだ。結局他人のために生きることが一番効率的なのだ。
本当によいものは、こちらの心を試してくるものだ。
人は個体によって見えるものが異なるもしかしたら唯一の生物。
評価は評価した人自身のレベルを最大限に露呈する。そこまでは日本はそろそろ達して来ている。それは無理やりいうと大衆意識のシンギュラリティなのか。
儚いものをはかないと認めることが慈悲の始まりだが、それを考えると、この世界のゲームから降りてしまいかねない。それはまた閉鎖的で孤独で頑ななことだ。だからといってはかなさを知らなければ、愛は存続し得ない。この稜線の上で生をまっとうすることが、本当の大胆なゲームだ。
人を攻撃する時、最も人は無防備だが、SNSはそれを微かに隠蔽する。しかしその代償は長きに渡って無意識に当人を圧迫することがある。
祈りはいつも境界線の中にある。両方を繋ぐ。
自分にとって良いことは他人にとってよいこととは限らない。人それぞれということでは無い。よいと思っている時点で、多分にそのことは自己の主観に襲われているからだ。
何も悲しむことなどない。魂はもともと狂っている。だから狂っていることに恐れを抱く必要はない。ただそれは孤独だ。
そして誰かと話をしたいと願うだけで、魂は語るための静けき心の橋を他人との間にかける。その過程を正常と呼ぶ。
他人は地獄だという証拠はいくらでも見つかる。だからそれに大した思索は必要ない。未来への意志を必要としないからだ。
他人は地獄だという証拠はいくらでも見つかるので、一度吹き込まれればそこから脱出することは出来ない。これこそ容易て壮大な分断の根源だ。ではそこからどうやって脱出するのか。それは個人的な対人関係の成功しかないだろう。
成功とはつまり人類愛という類いだ。しかし人類愛は意外に近傍に存在する。それは無心の瞬間に目に飛び込んで来る。
生きている限りアイデアは出る。むしろアイデアが出るということが生きているということだ。
つまり我々は生きている限り、位相の違うところからの声を聞いている。
苦しみを原動力にすることはできる。それほど我々は場に隷属するからだ。
本来比較とは諦観であった。比較が人心操作に使われてから、比較は怒りと妄想と策謀の根源になった。