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Twitterでバルカン史を垂れ流している@Rekishi_Balkanのbluesky版です。 制作者: @da1a.bsky.social Twitter版: https://x.com/Rekishi_Balkan
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[BOT] 【コンスタンティン・マヴロコルダトス(1711~69)】
ワラキア公、後モルダヴィア公。両公国の財政改革に尽力し、ワラキアでは1747年、モルダヴィアにおいては49年に農奴制の廃止を宣言。両公国の財政的安定に寄与したが、オスマン政府によって諸改革は廃された。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Constantin_Mavrocordat_jpg
[BOT] 【セルビア人・クロアチア人・スロベニア人国家(1918/10~12)】
33日間ハプスブルク帝国領の南スラヴ人居住地域に存在した未承認国家。10月にハプスブルク帝国を脱退したことで独立。12月にセルビア王国に加盟し消滅。画像はクロアチアで発行された当国の郵便切手。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_StampYugoslavia1918Michel51_jpg
[BOT] 【鉄衛団(1927~41)】
35年までは「大天使ミハイル軍団」、以降は「全ては国家の為に」が正式名称。ルーマニアの民族主義組織で、アントネスク政権下では彼と連合した。しかし昔に党を弾圧した人々に対する報復攻撃、国内で人気のあった元大臣の殺害等で政権と対立、弾圧され壊滅した。
[BOT] 【ラドゥ・ネグル(1269~没不詳)】
ワラキア国家の伝説的建国者で、トランシルヴァニアで反ハンガリー運動を指導した後、ワラキアで国家を建設したとされる。しかしその実在は文献において明確なものとなっておらず、彼の諸功績は他の支配者達のイメージを混成したものと考えられている。
[BOT] 【レグラメント・オルガニク(1831~54)】
基本法規とも。ロシア軍政下のワラキア・モルダヴィアにおいて、士官キセニョフ指導の下採択された憲法。三権分離、選挙君主制が掲げられ、両公国の不可分的統一が履行されるべきとされた。憲政下で両国は大きく発展し、後の統一の土台となった。
[BOT] 【テペデレンリ・アリ・パシャ(1741or43~1822)】
ヨアニナを中心に現アルバニア・ギリシャを支配したアーヤーン。彼はオスマン帝国政府の介入を武力で排除し半独立政権を構築したが、1820年代には政府との大規模な衝突が発生。22年にヨアニナが陥落し、2月5日に戦死した。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Dupré_-_Ali_Pasha_jpg
[BOT] 【マティヤ・バン(1818~1903)】
セルビアの政治家。カラジョルジェヴィチ家の家庭教師を務めるようになって以降非公式の外交官として働く。汎スラヴ主義的な組織「民主協会」の委員長を務めるなど汎スラヴ主義者としても知られ、「ユーゴスラヴィア」という語を初めて用いたとされる。
[BOT] 【パイシイ・ヒランダルスキ(1722~73)】
「聖パイシウス」とも呼ばれるアトス山のブルガリア人聖職者。1762年にブルガリアの歴史的栄光と反ギリシア主義を押し出した著書『スラヴ・ブルガリア史』を著し、ブルガリア民族覚醒において大きな役割を果たした。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Paisi_Hilendarisk1k_jpg
[BOT] 【マヴロ・オルビニ(1540頃~1614)】
ラグーサ共和国の史家・ベネディクト会修道士。バルカン・スラヴの視点から歴史を叙述した初めての作家で、1601年の年代記『スラヴ人の王国』で知られ、後のスラヴ史学者に大きな影響を与えたことから「ダルマチアのトゥキディデス」と呼ばれる。
[BOT] 【死の列車(1941/6~7)】
アントネスク政権下におけるヤシの虐殺から生き残ったユダヤ人に対して用いられた、強制疎開用の列車。窓がなく、脱出防止として通気口が塞がれていたため、中の人々は蒸される格好となり、さらには運行指示の矛盾から迷走を続け多くの衰弱死が発生した。
[BOT] 【アルバ・ユリア大国民議会(1918/12/1)】
WWI終期のトランシルヴァニアで行われた集会。普通選挙で選ばれた代議員600名と教育・文化・教会団体628名がトランシルヴァニアとルーマニア王国の統合を決議し、この日は後世ルーマニア統一の日としてナショナルデーに定められた。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_AsambleaDeAlbaIulia19181201_jpg
[BOT] 【最初のルーマニア憲法(1866)】
カロル1世によってベルギーの憲法を模範として起草されたものが初。これによって正式に「ルーマニア」という国号を定め、国旗が制定された。公に一定の権力がある上での立憲君主制が敷かれたが、ユダヤ人とムスリムは国籍を持てなかった。 https://mtbrs.net/ps_indrakandra_Proiectul_de_Constituție_din_1859.pdf_jpg
[BOT] 【イェルネイ・コピタル(1780~1844)】
スロベニアの言語学者。1808年最初期の近代的な文法書『カルニオラ、カリンティア及びスティリア地方のスラヴ語の文法』を著し、ウィーン大学スラヴ語講座の開設に尽力した(開講は49年)。弟子にセルビアの代表的な言語学者カラジッチがいる。
[BOT] 【オトン・ジュパンチッチ(1878~1949)】
スロベニアの詩人。イヴァン・ツァンカルに始まるスロベニア・モデルネ時代を代表する詩人の一人であり、児童文学でも活躍した他、リュブリャナで劇場支配人を務めた。WWIIが始まると愛国詩を書いてパルチザンを激励。戦後は国会議員に就いた。
[BOT] 【ヨヴァン・ツヴィイッチ(1865~1927)】
セルビア科学アカデミー議長、ベオグラード大学学長。1916年に戦争の影響でスイス、17年にパリに移り、バルカンを歴史、民俗学的に考察した『バルカン半島』を著した。南スラヴ主義者として知られ、ユーゴスラヴィア委員会とも交流を持った。
[BOT] 【ルーマニア革命(1989/12/16~26)】
チャウチェスク政権に対する武力革命であり、東欧革命の中で唯一の武力革命。ハンガリー系神父の強制退去を契機に反政府デモが広まり、鎮圧のための軍隊が国民側につき決着した。後継政府が共産党系で占められており「盗まれた革命」とも呼ばれた。
[BOT] 【ステファン・ウロシュ1世(1223~77)】
セルビア王。ドイツ人を国内に入植させて鉱業を発展させ、ヴェネツィアを基に通貨を創設。セルビアの経済成長を主導し、後の拡張の基盤を作った。倹約家であり、ビザンツの使節団は「偉大なる王」の渾名を持つ彼の質素な生活に驚いている。
[BOT] 【アレクサンダル(1857~86)】
大ブルガリア公国初代公。ヘッセン大公家の分家出身で、露土戦争をロシアの将官として戦ったこともあり国民からは期待を寄せられていたが、家父長的な性格が自由主義的な政府と対立した。憲法改正を巡る対立の中で親政を開始したが、支持を得られなかった。
[BOT] 【ウスコク戦争(1615~17)】
ヴェネツィア、オランダ、イングランドと、オーストリア、スペイン、神聖ローマによって行われた戦争。アドリア海の海賊ウスコクへの処置をめぐって行われ、ヴェネツィアの優勢が終わると宗教対立を抱える神聖ローマと講和で一致しマドリード条約が結ばれた。
[BOT] 【アスパルフ(644頃~700年頃)】
大ブルガリアの汗クブラトの三男にしてハザールの攻撃によってコーカサス・アゾフ海沿岸における支配権を喪失したブルガール族を率いてドナウ川流域に移住、オングロスでビザンツ軍を破り国家を建設した人物。すなわち第一次ブルガリア帝国の建国者である。
[BOT] 【ウスコク(16世紀)】
オスマン征服後、クロアチア人難民を中心に結成された海賊。主にオスマン商船を襲っていたが、ヴェネツィアの商船に対する略奪が行われるようになるとハプスブルク帝国とヴェネツィアの間でウスコク戦争が勃発、マドリード条約によりウスコクは追放や強制移住に処された。
[BOT] 【ヤニス・プシハリス(1854~1929)】
ギリシャの作家。ロシア領オデッサで生まれパリで教職に務めていたが、パリからアテネに戻る旅程『私の旅』を初めて民衆語(ディモティキ)で著し、当時ギリシャで行われた古典語(カサレヴサ)と民衆語の論争において民衆語側の運動の嚆矢となった。
[BOT] 【アダマンディオス・コライス(1748~1833)】
パリ在住のギリシャ人古典学者。ビザンツ以来のキリスト教がギリシャ人を無知蒙昧にしたと主張した他、1805年から「ギリシャ文庫」と呼ばれるホメロスからプトレマイオス朝までの時代の古代ギリシャ語著作を近代ギリシャ語に翻訳した。
[BOT] 【ヴィクトル・バベシュ(1854 ~1926)】
ルーマニアの細菌学者、ブカレスト大学医学部教授。細菌学の創始者であり、世界初の細菌学論文を著し狂犬病、ハンセン病、結核、ジフテリアなどの感染に関する研究に貢献した。ルーマニア最大の総合大学バベシュ・ヤーボイ大学にその名を冠する。
[BOT] 【ブカレスト条約(1812)】
第三次露土戦争の講和条約。オスマンの属国モルダヴィア公国の領土東半分がロシアに割譲され、中世ワラキアの支配者に因みベッサラビアと呼ばれた。また、第一次セルビア蜂起に対する処置として自治国を建てることとなったが、後にオスマンはこれを反故にし弾圧した。