高橋誠一郎
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 近著『黙示録の世界観と対峙する』(群像社)では比較文学と比較文明論の手法で『悪霊』などドストエフスキー作品と日本の文学における黙示録の問題を考察しています。そのことにより第三次世界大戦を望む教団と政治との癒着の危険性に迫りました。主な著書に『堀田善衞とドストエフスキー』、『「罪と罰」の受容と立憲主義の危機』など。 ホームページ stakaha5.jimdofree.com 旧ツイッター https://x.com/stakaha5
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Ⅳ. 堀田善衞研究――世界を見据えた文学と思想 
→ 2、政治と宗教の癒着と黙示録の解釈
stakaha5.jimdofree.com/%E5%A0%80%E7...

 韓国や日本だけでなくアメリカでも強い影響力を持つ旧統一教会は黙示録の独自な解釈により文鮮明を「再臨のメシア」とし、日本を「エバ国家」と規定するカルト教団である。
しかも、1966年に出版した教理解説書『原理講論』で「 〔サタン側と天の側に〕分立された二つの世界を統一するための(……)第三次世界大戦は必ずなければならない」と説いている。
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選挙ウォッチャーちだい氏
x.com/chidaisan/st...

>自民党がN国と会派を組むことに数としての意味はない。では、どんな意味があるのかと言えば、N国を介して統一教会とのつながりが再開することである。N国は自民党と統一教会をつなげるパイプである。まず、このことを理解してもらわないと始まらない。裏金と統一教会の復活が本格化するという話です。
x.com/chidaisan/st...
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『罪と罰』との出会い⑨

 これらの説教が問題なのは、戦場での敵ではなく選挙でのライバルを「悪魔」の側と決めつけていることである。それは『罪と罰』の主人公が「悪人」と見なした人間の殺害を正当化していたことにつながる危険性を孕んでおり、実際にトランプ氏が選挙で負けた際には暴徒が連邦議会議事堂を襲撃して死者も出ていた。
 一方、ドストエフスキーは『白痴』で黙示録に言及しつつも、その自己流の解釈をする人物を批判的に描いていた。 そして、黒澤明監督も映画『白痴』では黙示録的な終末観を美化せずに、虐げられた女性や死につつあるものの心理を深く理解できる人物として主人公のムィシキン公爵を描いた。
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『罪と罰』との出会い⑧

 ベトナ戦争の頃には福音派の伝道師ビリー・グラハムの伝道集会にも参加もしたがその説教に不満を覚えたのは、「人を殺す」戦争の問題には深く踏み込んでいなかったためだろう。
 しかも、加藤喜之によればグラハムはウォーターゲート事件以降は政治とは距離を置いていたが、息子のフランクリンは2024年のトランプの大統領選挙を、トランプ氏の信仰補佐官だったテレビ伝道師のポーラ・ホワイトと同じように、「神と悪魔の戦いという終末論的な物語」として語っていた。

(テレビ伝道師ポーラ・ホワイトの説教)
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Ⅳ. 堀田善衞研究――世界を見据えた文学と思想 
→ 2、政治と宗教の癒着と黙示録の解釈
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 韓国や日本だけでなくアメリカでも強い影響力を持つ旧統一教会は黙示録の独自な解釈により文鮮明を「再臨のメシア」とし、日本を「エバ国家」と規定するカルト教団である。
しかも、1966年に出版した教理解説書『原理講論』で「 〔サタン側と天の側に〕分立された二つの世界を統一するための(……)第三次世界大戦は必ずなければならない」と説いている。
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『罪と罰』との出会い⓾

 黒澤映画の影響が見られる作家の高橋和巳や原爆に「大審問官」を見た堀田善衞の作品が鋭く深いのは、19世紀のロシアにおける「神と悪魔の対立」という黙示録的な世界観の問題が、アメリカの「福音派」の問題を先取りしていたことを把握していたためではないだろうか。
 一方、『罪と罰』で偽の良心と殺害の問題を深く考察していたドストエフスキーも、『カラマーゾフの兄弟』ではイワンの物語詩をとおして、異端者を火刑にする「大審問官」とその作者イワンの良心の問題に鋭く迫ることで、黙示録的な世界観を批判していた可能性が浮かびかがって来る。この仮説は近著で検証することにしたい。
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NHK党・立花孝志氏、会見で統一教会からの強い支援を明らかにする。(6/13)

>統一教会から応援の申し出があったので受けました
 信者の名簿をもらいました

洪蘭淑『 #わが父文鮮明の正体
⇒文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。
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高市氏の決意と自民党会派に入るNHK党・立花孝志氏の喜びのポスト。
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2019年のポストを再掲する)

 1994年に『ヒトラー選挙戦略 現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていた高市氏は、総務大臣となると「電波停止」発言をした(7/26)

国連の特別報告者・デビット・ケイ氏との会見を拒んだ高市氏を再び、総務大臣に任命した安倍首相は、官邸で記者会見をし自民党主導で憲法改正論議を進め、「困難でも必ず成し遂げる決意だ」と訴えた。
主要閣僚を「 #日本会議 」系で固めた安倍内閣はいよいよ国際社会にも「歴史戦」を挑むように見える。(9/11)
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『罪と罰』との出会い⑦
 この侵攻が研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けていたモチューリスキーが『悪霊』論で「〔ドストエフスキーは〕世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と黙示録に引き寄せて書いていたからである。
 一方、イスラエルのネタニヤフ首相は大規模なテロに対してジェノサイドとも呼ばれるような徹底的な報復攻撃を始めたが、それを支持したトランプ氏は黙示録と旧約聖書の預言を重視する「福音派」の支援で大統領に再選されていた。
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『罪と罰』との出会い⑥

 ソ連崩壊前に『罪と罰』論を発表したリュブリャーナでの日々が、1996年に『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』を、2002年には『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(共に刀水書房)を著すことになる私の研究の方向性を定めたと思える。

 それゆえ、2021年のドストエフスキーの生誕二百年に際して作家を「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領が、翌年の二月にウクライナ侵攻に踏み切ったことを知った際には、ベトナム戦争の当時と同じような激しい衝撃と受けた。(図版はデューラーの「黙示録の四騎士」)
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『罪と罰』との出会い⑤
 夜に対話した際に井桁貞義氏はその年に刊行された『ドストエフスキイ』(清水書院)でドストエフスキーの体験と思想を浮かび上がらせようとしたとその趣向を熱く語った。
 実際、新書版の薄い本でありながら当時の社会情勢にも眼を配りながら、最先端のドストエフスキイ研究を取り入れて作品の構造を分析し客観的に作家の全体像に迫っており、第九章の「文明論の構図」などからは強い知的刺激を受けた。
 一方、チェルノブイリ原発事故原発事故を1986年にモスクワで体験していた私は、その事故がペレストロイカの進展に暗い影を落としていることや戯曲『石棺――チェルノブイリの黙示録』の感想を語った。
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『罪と罰』との出会い④

 その一方でラスコーリニコフの〈目的の重視〉と〈現在の軽視〉を指摘し、それがシベリア流刑での大自然との触れ合いにより〈近代社会の時間意識〉が根本的にゆすぶられたと分析した。
 すでに共和国間の対立の噂もあった元ユースラヴィアのスロヴェニア共和国の首都リュブリャーナで1989年に開催された国際ドストエフスキー・シンポジウムに参加した私は、『罪と罰』では二種類の良心が記されており、「悪人」の殺害を正当化したのは偽の良心によると分析した論考を発表した。
 その発表は思いがけずロシアや欧米の研究者からの好意的な評価を得て発表後に飲んだビールの味は忘れられない。(続く)
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『罪と罰』との出会い③ 

 その後も黒澤明監督の映画『白痴』だけでなく、高橋和巳や堀田善衞の小説から強い知的刺激を受けて『白痴』などを読み込む中で、「人を殺す」ことに対するドストエフスキーの文明論的な視野の広さをも備えた考察の深さを強く感じた。ただ、『悪霊』や『作家の日記』における作家の黙示録観については疑問も持ち、いつかはきちんと分析しなければならないと感じていた。
 それゆえ、「ドストエーフスキイの会」で発表した際には、『罪と罰』における凝縮された時間に言及して「ドストエフスキーは時間の規律から解放されている」としたミドルトン・マリの考察を黙示録に引き寄せた解釈であると批判した。(続く)
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『罪と罰』との出会い② stakaha5.jimdofree.com

 ナポレオンにあこがれて「非凡人の理論」を考え出し、「悪」と見なした老婆を殺害した主人公は次第に身体に違和感を覚えるようになる。そして、老婆を殺したことによって「自分を殺したんだ、永久に!」と告白し、エピローグでは自分を絶対視することによって起る黙示録的な世界終末の悪夢も描かれていたこの長編からは強い感銘を受けた。
 当時の法理論を背景にしながらも、思想だけでなく対人関係や主人公の感情をも描くことで、他者の殺害が自己の死につながることを文学的な手法で明らかにしていたからである。(続く)
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NHK党・立花孝志氏、会見で統一教会からの強い支援を明らかにする。(6/13)

>統一教会から応援の申し出があったので受けました
 信者の名簿をもらいました

洪蘭淑『 #わが父文鮮明の正体
⇒文師は日本との重要な金銭関係を神学用語で説明した。韓国は「アダム国」、日本は「エバ国」である。妻として、母として、日本は「お父様」の国である文鮮明の韓国を支えなければならない。
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#洪蘭淑『#わが父文鮮明の正体
「誓いの言葉」3、より
「天国のために血を流すことによって、召使いとして、けれどもお父様の心をもって、サタンに奪われた神の子女と宇宙を取り戻すために、サタンを完全に裁くまで、敵陣に勇敢に攻撃をかけます。このことを私は誓約します」
「誓いの言葉」5、より
「真のお父様の子女となることを誇り、ひとつの伝統を受け継ぐ家族であることを誇り、ひとつの心情世界を確立するために働く者であることを誇りに思います。私は自分の命をかけて闘います。」
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洪蘭淑『#わが父文鮮明の正体』文藝春秋、1998年
「八五年の終わり、彼が自らと韓鶴子を秘密儀式で、世界皇帝と皇后に即位させたとき、文師の傲慢は絶頂に達した。(……)文師よりも高い権威はないのだから、メシアは自分で自分を世界皇帝に戴冠しなければならなかった。」
「国家神道は、日本人にその指導者たちを崇拝することを要求した。権威に対する従順と自己犠牲は、最高の美徳と考えられた。
したがって、文鮮明のようなメシア的指導者にとって、日本が肥沃な資金調達地であることにはなんの不思議もない。⇒
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 黒澤映画の影響が見られる作家の高橋和巳や原爆に「大審問官」を見た堀田善衞の作品が鋭く深いのは、19世紀のロシアにおける「神と悪魔の対立」という黙示録的な世界観の問題が、アメリカの「福音派」の問題を先取りしていたことを把握していたためではないだろうか。
 一方、『罪と罰』で偽の良心と殺害の問題を深く考察していたドストエフスキーも、『カラマーゾフの兄弟』ではイワンの物語詩をとおして、異端者を火刑にする「大審問官」とその作者イワンの良心の問題に鋭く迫ることで、黙示録的な世界観を批判していた可能性が浮かびかがって来る。この仮説は近著で検証することにしたい。
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『罪と罰』との出会い⑨

 これらの説教が問題なのは、戦場での敵ではなく選挙でのライバルを「悪魔」の側と決めつけていることである。それは『罪と罰』の主人公が「悪人」と見なした人間の殺害を正当化していたことにつながる危険性を孕んでおり、実際にトランプ氏が選挙で負けた際には暴徒が連邦議会議事堂を襲撃して死者も出ていた。
 一方、ドストエフスキーは『白痴』で黙示録に言及しつつも、その自己流の解釈をする人物を批判的に描いていた。 そして、黒澤明監督も映画『白痴』では黙示録的な終末観を美化せずに、虐げられた女性や死につつあるものの心理を深く理解できる人物として主人公のムィシキン公爵を描いた。
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『罪と罰』との出会い⑧

 ベトナ戦争の頃には福音派の伝道師ビリー・グラハムの伝道集会にも参加もしたがその説教に不満を覚えたのは、「人を殺す」戦争の問題には深く踏み込んでいなかったためだろう。
 しかも、加藤喜之によればグラハムはウォーターゲート事件以降は政治とは距離を置いていたが、息子のフランクリンは2024年のトランプの大統領選挙を、トランプ氏の信仰補佐官だったテレビ伝道師のポーラ・ホワイトと同じように、「神と悪魔の戦いという終末論的な物語」として語っていた。

(テレビ伝道師ポーラ・ホワイトの説教)
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『罪と罰』との出会い⑦
 この侵攻が研究者にとって深刻なのは、ナチス・ドイツの占領下にあったパリで研究を続けていたモチューリスキーが『悪霊』論で「〔ドストエフスキーは〕世界史を、ヨハネの黙示録に照らしあわせ、神と悪魔の最後の闘いのイメージで見、ロシアの宗教的使命を熱狂的に信じていた」と黙示録に引き寄せて書いていたからである。
 一方、イスラエルのネタニヤフ首相は大規模なテロに対してジェノサイドとも呼ばれるような徹底的な報復攻撃を始めたが、それを支持したトランプ氏は黙示録と旧約聖書の預言を重視する「福音派」の支援で大統領に再選されていた。
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『罪と罰』との出会い⑥

 ソ連崩壊前に『罪と罰』論を発表したリュブリャーナでの日々が、1996年に『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』を、2002年には『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(共に刀水書房)を著すことになる私の研究の方向性を定めたと思える。

 それゆえ、2021年のドストエフスキーの生誕二百年に際して作家を「天才的な思想家だ」と賛美したプーチン大統領が、翌年の二月にウクライナ侵攻に踏み切ったことを知った際には、ベトナム戦争の当時と同じような激しい衝撃と受けた。(図版はデューラーの「黙示録の四騎士」)
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『罪と罰』との出会い⑤
 夜に対話した際に井桁貞義氏はその年に刊行された『ドストエフスキイ』(清水書院)でドストエフスキーの体験と思想を浮かび上がらせようとしたとその趣向を熱く語った。
 実際、新書版の薄い本でありながら当時の社会情勢にも眼を配りながら、最先端のドストエフスキイ研究を取り入れて作品の構造を分析し客観的に作家の全体像に迫っており、第九章の「文明論の構図」などからは強い知的刺激を受けた。
 一方、チェルノブイリ原発事故原発事故を1986年にモスクワで体験していた私は、その事故がペレストロイカの進展に暗い影を落としていることや戯曲『石棺――チェルノブイリの黙示録』の感想を語った。
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『罪と罰』との出会い④

 その一方でラスコーリニコフの〈目的の重視〉と〈現在の軽視〉を指摘し、それがシベリア流刑での大自然との触れ合いにより〈近代社会の時間意識〉が根本的にゆすぶられたと分析した。
 すでに共和国間の対立の噂もあった元ユースラヴィアのスロヴェニア共和国の首都リュブリャーナで1989年に開催された国際ドストエフスキー・シンポジウムに参加した私は、『罪と罰』では二種類の良心が記されており、「悪人」の殺害を正当化したのは偽の良心によると分析した論考を発表した。
 その発表は思いがけずロシアや欧米の研究者からの好意的な評価を得て発表後に飲んだビールの味は忘れられない。(続く)
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『罪と罰』との出会い③ 

 その後も黒澤明監督の映画『白痴』だけでなく、高橋和巳や堀田善衞の小説から強い知的刺激を受けて『白痴』などを読み込む中で、「人を殺す」ことに対するドストエフスキーの文明論的な視野の広さをも備えた考察の深さを強く感じた。ただ、『悪霊』や『作家の日記』における作家の黙示録観については疑問も持ち、いつかはきちんと分析しなければならないと感じていた。
 それゆえ、「ドストエーフスキイの会」で発表した際には、『罪と罰』における凝縮された時間に言及して「ドストエフスキーは時間の規律から解放されている」としたミドルトン・マリの考察を黙示録に引き寄せた解釈であると批判した。(続く)
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 ナポレオンにあこがれて「非凡人の理論」を考え出し、「悪」と見なした老婆を殺害した主人公は次第に身体に違和感を覚えるようになる。そして、老婆を殺したことによって「自分を殺したんだ、永久に!」と告白し、エピローグでは自分を絶対視することによって起る黙示録的な世界終末の悪夢も描かれていたこの長編からは強い感銘を受けた。
 当時の法理論を背景にしながらも、思想だけでなく対人関係や主人公の感情をも描くことで、他者の殺害が自己の死につながることを文学的な手法で明らかにしていたからである。(続く)