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ぼくのかんがえたさいきょうのbot ニーチェ(379),ウィトゲンシュタイン(327),三島由紀夫(241),シュペングラー(205),ゲーテ(180),ドストエフスキー(115),カフカ(102),聖書(99),カント(99),オスカー・ワイルド(61),太宰治(59),ショーペンハウアー(37),その他(356) 2時間毎に投稿します 4.5ヶ月くらいで1周します
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彼は、ときには心からの熱情をもって「賛成」したり「反対」したりしたことがあるのを、一生涯気にやみ、そうしたことはなかったものとその生涯から消しさりえたらとねがった。
(ニーチェ『権力への意志』424)
──私たちの思想がいかにして私たちの心にうかんだかという"事実"は、隠蔽したり破損したりしてはならない。最も深い汲みつくしがたい書物は、きっとつねに、パスカルの『パンセ』の箴言風の突発的な性格をなにほどかもったものとなるであろう。
駆りたてる力や価値評価は長いこと表面の下にかくれており、あらわれでるものは結果なのである。
私は偽りの科学性のすべての偽善に対して身を守る。すなわち、"客観性"を、冷ややかな非人格性を要するとき。笑うべき虚栄心がある、たとえばサント・ブーヴのそれ。
正しいものが存在するだけということ、すなわち他の判断よりも大きな説得力のある判断が存在するということである。批判的知識の基礎は、今日の理解が昨日の理解より優越していると信ずるところにある。われわれにこの信念を強いるものは、またもや生命である。
それでは批判は大きな問題を解くことが
できるであろうか。それともただその解き得ないことを確定するに止まるであろうか。知識の最初においては、われわれは前者を信ずる。われわれが知れば知るほど、第二が確実となってくる。われわれは、希望している限りは、秘密を問題と名づけている。
(シュペングラー『西洋の没落』第2巻第1章3)
原始的人間は抽象的に思考するずっと以前に、自分の宗教的世界像を創造していた。これが今日知性が批判的に従事しているところの対象である。あらゆる科学は一つの宗教に基づいて、またその宗教のすべての魂の前提の下に生成した。そして科学は、この虚偽と見なされた教説、抽象的でない教説の
抽象的改善を意味するにほかならない。各科学はその根本概念、問題提出および方法の総体のなかに宗教の中核を持ちつづけている。知性が見出すすべての新しい真理は、すでに存在していた他の真理に対する批判的判断にすぎない。新旧の知識の間の極性のもたらす結果は、知性の世界においてはただ比較的に
死にたいという願望がある。そういうとき、この人生は耐えがたく、別の人生は手が届かないようにみえる。
イヤでたまらない古い独房から、いずれイヤになるに決っている新しい独房へ、なんとか移してほしいと懇願する。
(カフカ 罪・苦痛・希望・及び真実の道についての考察)

征服した国に遁れて、まもなくそのことが耐えられぬ思いになる。遁れる先など、どこにもありはしないからだ。
(カフカ 日記 1922.3.15)
ストア主義者は世界をあるがまま受け取る。社会主義者は世界を形式、内容にしたがって組織し、改造し、自己の精神をもって満そうとする。ストア主義者は順応する。社会主義者は命令する。全世界は"彼の"直観の形式を持つべきである──『純粹理性批判』の理念はこのように倫理のなかに移し入れられた。
これは定言命法の意味であって、カントはこの意味を政治、社会、経済に適用して、「汝の行為の格率が"汝の意志によって普遍的法則たるべきように行為せよ"」と言う。そうしてこの専制的傾向は、時代の最も皮相的な現象にさえも存しているのである。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第5章17)
倫理的社会主義は──その表面的幻影はどうでも──同情、人道、平和また配慮の体系ではなく、権力意志の体系である。それ以外は自己欺瞞である。その目標たる福祉は徹底的に帝国主義的である。すなわちその福祉というのは拡張的意味におけるもので、病者の福祉ではなく、所有、出生および伝統の障碍に
妨げられないで、強引に活動の自由の与えられるべき行動力ある者の福祉である。感情的道徳、すなわち「幸福」と功利を目ざす道徳は、われわれのあいだにあっては決して最後の本能"ではない"。この道徳的近代性の頂上に立つ者は(この場合ルソーの弟子としての)カントでなければならない。
意識していたら、彼の気力を挫いたに違いない。しかし苦痛は彼の気力を高揚させるきっかけとなった。この苦痛は彼が不正な行為によってみずから招いたものではないし、不正な行為のために自ら罰せられるに値する存在となったわけではないことを、彼は意識していたからだ。
(カント『実践理性批判』090)
古代のストア派の哲学者は、激しい痛風に苦しみながら、「苦痛よ、私をもっと苦しめるがよい、しかし私は [どれほどつらくても]、お前を悪と認めることはない!」と叫んだのだった。人々はこの哲学者を嘲笑するが、それでも彼は正しかったのだ。彼が感じたのは災いであったし、彼が叫びを漏らしたのは、
この災いのゆえだった。しかし彼はこの災いのために自分に悪が生じたと考える理由は、まったくなかった。この苦痛は彼の人格の価値をいささかも損ねるものではなく、ただ彼の [健康] 状態の価値を低めただけだからだ。このストア派の哲学者がただの一度でも嘘をついたことがあり、彼が自らそのことを
どの大きな問題も、まったくきまっている答えを熱烈に要求することがその根底をなしているので、その問題も単に一つの生命象徴の意味を持つにすぎない。永遠の真理なるものは存在しない。どの哲学もその時代の表現であり、そうしてその時代だけの表現である。
(シュペングラー『西洋の没落』緒論15)
体系哲学者は、自己の成果の永続ということに関して、重大な誤謬に陥っている。彼の見逃していることは、どんな思想も一つの歴史的な世界のなかに生きているのであり、したがって一般に減ぶべき運命をまぬがれ得ないということである。
彼の意見によれば、より高い思想は永遠であり、不変である対象を持っているし、大きな問題はどんな時代にも同一であるし、結局いつかは答え得られるものだというのである。
しかし問題と解答とは、ここでは同じ一つのことである。そうして
感想をのべる義務を感じるようになった。美をいそいで換価する必要を感じるようになった。換価しなければ危険である。美は爆発物のように、所有の困難なものになった。というよりは、沈黙を以て美を所有する能力、この捨身を要する崇高な能力が失われたのであります。
(三島由紀夫『禁色』第9章)
しかるに、美が人を黙らせるという信仰は、いつかしら過去のものとなるにいたりました。もはや美は人を黙らせず、たとえ美が宴の只中を通り抜けても、人々はお喋りをやめないようになる。京都へいらした方は、竜安寺の石庭を必ずや御覧になった筈でありますが、あの庭は決して難問ではない、
ただの美であります。人を黙らせる庭であります。ところが滑稽なことに、御庭拝見にまかり出る近代人は黙るだけで満足しない。何か一言なかるべからずというので、俳句をひねり出すようなしかめ面になる。美が饒舌を強要するようになった。美の前へ出ると、何か大いそぎで
倫理的命題は、「汝これをなすべし!」とか「これは善い!」といった内容を持っており、「これらの人間はこれが善いと言っている」という内容を持ってはいない。しかし倫理的命題とは一つの個人的な行為なのである。事実の確認などではないのだ。賛嘆の叫びのようなものなのだ。「倫理的命題」の
根拠付けとは、その命題を、自分にある印象を与える別の命題へと連れ戻そうとすることに過ぎないのだということをぜひとも考えよ。もしお前があれに対する嫌悪もこれに対する賛嘆も感じていないのなら、その名に値するどんな根拠付けも存在しないのだ。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1931.5.6)
「では試してみよう」と応えることが私に許されるあらゆる懐疑を、私は称賛する。だが、実験を許さないどんな事物もどんな問題も、私は金輪際聞きたくない。これが私の「真理感覚」の限界である。というのも、そこでは勇敢さが権利を失っているからである。
(ニーチェ『愉しい学問』51番)

どんな事実も確実と見なさない者にとっては、自分の用いる言葉の意味もまた確実ではありえない。
すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くことまできないだろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提している。
(ウィトゲンシュタイン 確実性の問題 114-115)
哲学的問題の形式は「私は何一つ知らない」という形をとる。
(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』123)

われわれはまず埃を立てておいて、それから「見えない」と文句を言う。
(バークリー『人知原理論』序論3)

懐疑家が好むのは、高貴な禁欲によって、自分の徳性の高さを祝う祝日とすることである。そしてモンテーニュとともに、「わたしが何を知っているのだろう」と問う。あるいはソクラテスとともに、「わたしは、自分が知らないということを知っている」と言う。
(ニーチェ『善悪の彼岸』208)
一般に一つの科学的思考法は、その特有な生活感情に完全に一致したとき正しく、「思想的に必然」なのである。そうではない場合にはそれは不可能であり、無意味であり、(あるいは、我々の歴史的知性からくる高慢さから言いたがる語で言えば)「原始的」である。西洋知性の傑作である近代数学は──
もとより、この西洋知性に対してだけの「真理」なのだが──、プラトンから見れば真の数学(いうまでもなくギリシャ・ローマ数学)に行く途中の笑うべき、厄介な脱線であったことだろう。我々は他の諸文化の大思想について、ほとんどなんの知るところもない。
(シュペングラー『西洋の没落』第1巻第1章5)
ギリシャ・ローマの数学は、我々が二乗三乗というところを平面数立体数といっている。そこで彼らがそれ以上の整数冪の概念を有していないことは当然である。四乗というのは、これに実体的な拡がりを付け加えようとする彫塑的根本感情からいうと無意味となるだろう。我々の公式にいつも出てくる
e^(-ix) のような表現は、彼らには不合理と思われたであろう。
違った思考構造を有する我々の習慣からこれを非難したり、これこそ「数学」の発達における「最初の段階」だとしてはいけない。それは"我々のためのもの"でないだけである。
繰り返していうが「数学」とは幻影である。一つの数学的思考法、
信仰という心の状態が人間を幸せにできるということを理解している、と私は信じる。というのも、もし人が心の底から、自分のために完全な者〔キリスト〕が自らを捧げ、自らの命を犠牲とし、それによって、始まりから自分を神と和解させてくれたのであり、それだから今から自分はこの犠牲に
ふさわしいようにのみ生き続けるべきである、と信じるのなら、それはその人間全体を高貴にせざるを得ない、いうなれば、貴族の地位へと高めざるを得ないからである。これが幸福へと向かう魂の運動であることを私は理解している。私はこう言いたいのだ。
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.3.20)
愛する女性とうまくやってゆくためには、彼女の前で恋仇のことを褒めるにしくはない。このことに早くから気づいていたら、このことを手遅れにならぬうちに教わっていたら、人生にとってどれほどプラスになることだろう。それを聞いて彼女の心はたちまち晴れ上がり、君の心を傷つけはせぬかとの心配も、
君を失いはせぬかとの恐れも消え去ってしまう。彼女は君を心を許す友としてくれるだろうし、君もまた、よろこびをもって確信するだろう。他の人たちに落葉をゆずってやるだけのゆとりが君にあれば、木の実を手に入れるのはほかならぬ君自身だということを。
(ゲーテ『箴言と省察』経験と人生)
いかに御自身を不幸と思はれるときがあつても、御自身を多くの人間が考へてゐる幸福といふ逆説だとお考へになつて、いつも晴朗な態度を持しておいでになることが肝要である。
(三島由紀夫『最高の偽善者として』)
殿下の御結婚問題についても世間でとやかく云はれてゐるが、われわれには自由恋愛や自由結婚が流行してゐるのに、殿下にその御自由がないのは、王制の必要悪であつて致し方がない。王制はお伽噺の保存であるから、王子は姫君と結婚しなければお話が成立たないのだ。
からいふ点でも殿下の持つてられる自由は、われわれよりはるかに乏しいが、人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らないことは、終戦後の日本を見て、殿下にもよく御承知であらう。殿下は人間がいつも夢みてある、自由の逆説としての幸福を生きてられるので、
神秘主義、永遠の空虚のみだらな"享楽"。「芸術のための」芸術、"おのれ"自身にもよおす嘔吐の麻酔薬としての「純粋認識」。なんらかの不断の労働、なんらかの取るにたらない愚劣な狂信。すべての手段の混乱、全般的な不節制による病気(放蕩は楽しみを減殺する)。
(ニーチェ『権力への意志』29)
自己麻酔の種類。──心の奥底にかくれている、すなわち、どこへゆくべきか? を知らないこと。"空虚"。陶酔でこれをのがれようとする試み。音楽としての陶酔、最も尊貴なものが徹底的に没落するのを悲劇的に享楽する残酷さとしての陶酔、個々の"人間"や"時代"に対する盲目的な
惑溺としての陶酔(憎悪その他としての)。──科学の道具として無自覚にはたらきまわる試み、すなわち、多くの取るにたらない享楽にも眼をみひらいていること、たとえば認識者としても(おのれに対する謙譲)。おのれの分限を一般化して、一つのパトスにしあげること。
彼のほうから質問してきたら、好奇心を十分にみたしてやるのではなく、それをはぐくむのに必要な程度の返事をしたらいい。ことに、何か知ろうとして質問するのではなく、いきあたりばったりにくだらない質問をしてあなたがたを困らせようとしていることがわかったら、返事するのをすぐにやめることだ。
その場合には、彼はもう事物には関心をもたないで、ただ自分の質問に答えさせようとしているにすぎないことはたしかだ。彼が発する言葉よりもむしろ彼に話をさせる動機に気をつけなければならない。こういう注意は、子供が議論をするようになるとこのうえない重要性をもつ。
(ルソー『エミール』第3編)