まさ
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careworker.bsky.social
まさ
@careworker.bsky.social
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哲学に関心のある介護職。 介護福祉士、介護支援専門員、社会福祉士。 Discordにて読書会「ケアとか倫理とか哲学とか」主宰/9月14日(日)22時~ 第10回フランクル読書会/27日(土)22時~ 第31回レヴィナス読書会 高卒。哲学・倫理学の専門教育は受けていません。
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布団のなかで「なぜ私は布団から出て起きなければならないのか」という何度も問うた問いを問うている。
定期的に勉強の成果をnoteにまとめてみるか。期間・テーマ・文字数を決めてセルフレポート提出方式。
資格試験以外に実務書を読むよい負荷のかけ方を見つけなければ。資格試験はお金がかかる。あくまで勉強が主眼だから、そこを継続できるような仕組みを考えなければ。生涯学習は精神的健康に欠かせない。その点、哲学の読書会はよい。これを実務領域にも応用ができればいいのだが…。
次に実務上学ぶべきは、家族ケアとコーチング。ソーシャールワーク、ケアマネジメント、終末期ケア(合格した前提)の継続学習。読書会、臨床哲学、哲学カフェ。育児、教育、中年クライシス。また一旦立ち止まって考えよう。今年中には固めたい。もう年末感出てきた。
晴天のなか終末期ケア専門士試験終了!
時間配分は問題なく、しっかり見直しできたものの、知識不足で微妙な手応え…。半年くらい時間が取れたらと思ったが、思い立ったが吉日と言うし、挑戦自体はよい経験になった。落ちたらもう一回受けたい。明後日のレヴィナス読書会の準備しよう(何もしてない)!
どれだけ通用するか、自分自身をどう乗りこなせるか、楽しんでいきたいと思います!
気分的にはスカイダイビングみたいな感じです☀️
午前中は病院受診。長い待ち時間に終末期ケア専門士のテキストを読んでいる。終末期を支えるというのは「善く生きる」という古代から続く人間の理想の、実現を支えることでもあるのかな…などと思いをめぐらす。
認知症の緩和ケア、勉強したいな。試験か研修講師か、期間を決めてある程度負荷かけないと中々取りかかれないのが問題だ。認知症の緩和ケアというか、生きることは常に既に死への緩和ケアなんじゃないかと思ったり。
おはようございます。今日は終末期ケア専門士の試験。勉強不足感は拭えないものの、全く話しにならない訳でもないだろう…というところ。平常心でいきたい。過緊張による回答ミスや時間配分ミスを避けるために、試験後の事を考えるのが常套手段。洗濯取り込んで、炊飯器予約して、子どものお迎えにいく。
生きている内に、人間性心理学の代表的人物であるカール・ロジャーズ、アブラハム・マズロー、ロロ・メイの3名の主著は読みたい。実存とケアを考える上で、人間性心理学が拓いた道を辿り直してみたいと思う。
最近は小学生になった娘の食欲に驚くことが多い。成長期。
終末期ケア専門士、29日14時が試験。誤答を書き出してまとめていたけど時間が足りず、当日まで弱点範囲のテキストを読むことにする。結構確実な知識が問われるっぽい。受かる気はしないが楽しみではある。
Reposted by まさ
【テレビ】10/26(日)Eテレ 05時
こころの時代選 ヴィクトール・フランクル (1)「日曜生まれの子」その光と影
「どんなに苦しい状況に陥っても、生きることには意味がある」。ナチス・ドイツの強制収容所を生き延びた精神科医ヴィクトール・フランクルの思想と人生にシリーズで迫る。
www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6...
フランクルを読んでいて、ふとジャンケレヴィッチ『死』が読みたくなった。しかしなかなかインパクトがある。
終末期ケア専門士、29日が試験だけど、誤答の強化が圧倒的に不十分。やるしかないし、やるだけやる。すでに色々な知識が得られているので得たものは十分、失うものはなし。
「人間」についての覚書

病いを患っても、死を前にしても、「人間」で在ることは捨てられはしない。それは最後まで残された事実である。それは同時に「自由ー責任」を課された存在として存在し続けるということでもあるだろう。「人間」である事を考える時、人は「原事実」とでもいうべき事に立ち返る。
芸術についての覚書

どんなに優れた芸術や思想であっても、それが誰か、何か、どこかに向けられていなかったなら、そこにいのちは宿らないのではなかろうか。おそらく、優れた芸術や思想は誰か、何か、どこかに向かっていて、それ自身のうちに完結しない、未完の領域が残されているのではなかろうか。
アルコールではなく運動で発散しなければ、身体が耐えられなくなる。長期戦だ。考えていかなければ。
終末期ケアについての覚書

他者の胸の痛みを自らの痛みのように感じられるのは、自らも胸の痛みに苦しみもがいたことがあるからだろう。ケアには、ときにそのような深みが求められるのではないか。客観的で冷静な理解者としてではなく、暗く、孤独な道の随伴者として。
孤独・自由・責任についての覚書

誰も応えてくれない、誰からも見返りは得られない、そういう領域に差し掛かってきて、初めて真剣に自分がどう在るかを責任を持って決断し得る。それは根源的な自由でもある。

実存哲学がハイデガーから吸収したものの一端はそういうものだろう。
フランクルは人間を「意識存在」「責任存在」「決断存在」と定義し、滝沢克己は「根源的自由」「原事実」と呼んでいるのだろう。

その領域に踏み込めることは喜ばしくもある。自分ではなかなか降りていけない場所であるから。
理想に鍛えられていない人が弱音を吐くのは仕方のないことかもしれない。その人にはエネルギーがない。手応えがない。だから人の足を引っ張ることで自己と孤独から逃げようとする。エネルギーに火がついてしまうのが恐ろしくもあるのだろう。所有したものの上にあぐらをかいていたいのだ。
こういうことはニーチェが言っていた。
自分だけに語りかけてくる理想、これは固有のものだ。
いま為すべきことに集中すること、その補助としての瞑想。
今日はフロムも少し読みました。