第一感は「それはないのでは」だったが、同時代の環境やツールを全く無視するような人ではないから、むしろ人並み以上に使いこなすかもしれない。しかしそうすると、中井久夫が中井久夫ではなくなってしまうのではとも思う。あのような思考、あのような文章は、SNSやブログのような断片的思考の集積からは決して生まれないだろう。ましてAIを利用した下書きを整形して組み合わせるような書き方では、あの独特の思索のリズムは生まれてこない気がする。
第一感は「それはないのでは」だったが、同時代の環境やツールを全く無視するような人ではないから、むしろ人並み以上に使いこなすかもしれない。しかしそうすると、中井久夫が中井久夫ではなくなってしまうのではとも思う。あのような思考、あのような文章は、SNSやブログのような断片的思考の集積からは決して生まれないだろう。ましてAIを利用した下書きを整形して組み合わせるような書き方では、あの独特の思索のリズムは生まれてこない気がする。
タイトル面白そうで電子で買って積んでたが読破。
ネットどころかPCもスマホもない19世紀に「インターネット」があった…!?という話で、その正体を言っちゃうと「電信」なのだが、電気と符号を用いて遠距離かつ即座のコミュニケーションを可能にする巨大な「ネットワーク」を築いたという意味で、たしかにインターネットの本質との相似が多くて面白い。
ネット恋愛(?)も盛り上がり、逆に駆け落ちした男女が、電信で先回りした実家に結婚を阻まれた、という事件もあったらしく、世間が「電信は恋愛の敵」みたいなムードになったという話とか笑う。ヴィクトリア朝時代の「SNSやめろ」
タイトル面白そうで電子で買って積んでたが読破。
ネットどころかPCもスマホもない19世紀に「インターネット」があった…!?という話で、その正体を言っちゃうと「電信」なのだが、電気と符号を用いて遠距離かつ即座のコミュニケーションを可能にする巨大な「ネットワーク」を築いたという意味で、たしかにインターネットの本質との相似が多くて面白い。
ネット恋愛(?)も盛り上がり、逆に駆け落ちした男女が、電信で先回りした実家に結婚を阻まれた、という事件もあったらしく、世間が「電信は恋愛の敵」みたいなムードになったという話とか笑う。ヴィクトリア朝時代の「SNSやめろ」
そんなことを最近考えています。「消費は美徳」と言ったときに、倹約を徳目に掲げた通俗道徳はどう変質しつつも生き延びたのか、なぜこの時清算できなかったのか、そういった近代から現代への移行と通俗道徳の根強さについてです。
そんなことを最近考えています。「消費は美徳」と言ったときに、倹約を徳目に掲げた通俗道徳はどう変質しつつも生き延びたのか、なぜこの時清算できなかったのか、そういった近代から現代への移行と通俗道徳の根強さについてです。
通俗道徳が早くから自己鍛錬としての心得の性格を失い、弱者を貶める攻撃手段になってしまっていたから、かつては蕩尽の愚かさが撃たれたのが、今度は消費できないみじめさを嘲るものへと変化した、そのようなことなのではないかと思います。この変化は、「イエ」と近代家族で家の理想が違うからです。
通俗道徳が早くから自己鍛錬としての心得の性格を失い、弱者を貶める攻撃手段になってしまっていたから、かつては蕩尽の愚かさが撃たれたのが、今度は消費できないみじめさを嘲るものへと変化した、そのようなことなのではないかと思います。この変化は、「イエ」と近代家族で家の理想が違うからです。
経営体を発展させるのであれば、勤勉によって得た富は蕩尽するのではなく、蓄積して再投資に回すべきです。ところが近代家族が登場すると話は変わります。近代の家族は職住分離して、父が外へ働きに行って収入をもっぱら得ます。家は経営体であることをやめ、消費のみで結びつく共同体になりました。
経営体を発展させるのであれば、勤勉によって得た富は蕩尽するのではなく、蓄積して再投資に回すべきです。ところが近代家族が登場すると話は変わります。近代の家族は職住分離して、父が外へ働きに行って収入をもっぱら得ます。家は経営体であることをやめ、消費のみで結びつく共同体になりました。
高度成長期に「消費は美徳」という言葉が生まれましたが、言い換えるとそれまで消費は美徳ではなかったのです。むしろなるべく消費をしない倹約が尊ばれたのでした。それが美徳になることで形成された大衆消費社会に、今でも私たちは生きています。通俗道徳のわなは健在なのに、消費は美徳なのです。
高度成長期に「消費は美徳」という言葉が生まれましたが、言い換えるとそれまで消費は美徳ではなかったのです。むしろなるべく消費をしない倹約が尊ばれたのでした。それが美徳になることで形成された大衆消費社会に、今でも私たちは生きています。通俗道徳のわなは健在なのに、消費は美徳なのです。
こうして、貧困をはじめとする社会問題に苦しむ人を
「自己責任」と切り捨てる文化が形成されたのですが、これを松沢裕作先生は「通俗道徳のわな」と呼びました。詳しくは、何度紹介したか分かりませんが、『生きづらい明治社会』をぜひご参照ください。
amzn.to/3DIK01Q
こうして、貧困をはじめとする社会問題に苦しむ人を
「自己責任」と切り捨てる文化が形成されたのですが、これを松沢裕作先生は「通俗道徳のわな」と呼びました。詳しくは、何度紹介したか分かりませんが、『生きづらい明治社会』をぜひご参照ください。
amzn.to/3DIK01Q
univ-journal.jp/250863/
日本人として悲しむべき指摘ですが、頷かざるを得ないのも確かな指摘です。いつもの話で恐縮ですが、こういった文化的背景には、通俗道徳の影響が強いと考えられます。
「共感的関心が高いと他者の利他的な行動を期待しやすく、また社会的支援を求めやすいことがわかったとしている。逆に、日本では、苦しみをその人間の社会規範や秩序からの逸脱による報いとして解釈する特有の文化背景により、共感的関心や他者の利他行動への期待が低く、それゆえ社会的支援が求めにくいことが考えられるという。」
univ-journal.jp/250863/
日本人として悲しむべき指摘ですが、頷かざるを得ないのも確かな指摘です。いつもの話で恐縮ですが、こういった文化的背景には、通俗道徳の影響が強いと考えられます。
「共感的関心が高いと他者の利他的な行動を期待しやすく、また社会的支援を求めやすいことがわかったとしている。逆に、日本では、苦しみをその人間の社会規範や秩序からの逸脱による報いとして解釈する特有の文化背景により、共感的関心や他者の利他行動への期待が低く、それゆえ社会的支援が求めにくいことが考えられるという。」
逸見龍生先生が
『地平』1月号に『エキストリーム・センター』の書評として書かれた、
「新自由主義の政治学——極中道とレイト・ファシズム」、
ものすごい密度のすばらしい論考です。
https://chiheisha.co.jp/2025/12/02/月刊『地平』2026年1月号(12月5日発売)/
逸見龍生先生が
『地平』1月号に『エキストリーム・センター』の書評として書かれた、
「新自由主義の政治学——極中道とレイト・ファシズム」、
ものすごい密度のすばらしい論考です。
https://chiheisha.co.jp/2025/12/02/月刊『地平』2026年1月号(12月5日発売)/