ねこせんべい
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どうも。またお会いしましたね。
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“ 僕には3%アプローチと呼ぶものがある。いまでは何かを作るとき、原型の3%をエディットするということしかしなくなったんだ。疲れてるんだね。もう歳かな。僕としては、すでにある形にほんの少し手が加えられた状態が面白いんだ。この靴みたいに。これはエアフォース1。ジョーダンのやつ。新しいエアフォース1を作ってくれって頼まれたんだ。作るにあたって、3%だけいじってもいいっていう縛りを自分で設けてみたくなってね。新しい靴がもう一足ほしいというわけじゃないし。すでに自分が持っている靴のことをあらためて認識させてくれるような何かがいいと思ったんだ。”
“ 直線的思考は過去のプロダクトの模倣に留まる。ジグザグなアプローチは新たな空間を見出す。”
“ クオーテーションマーク付きで綴られる言葉は、二面性を同時に持たせることができて、抽象的であると同時に、具体的にピンポイントで何かを表現することもできる。キーボードだけでデザインできるしね。”
しかしその後、これを駆逐する服装が見られない。不思議であるが、その理由の一つは、常にフォーマルフアッションのルーツにあり続けた軍服の影響が小さくなって、逆に民間の服が軍服のデザインを左右する時代になった、そのためにスーツに決定的変化を与えるファクターがほかの分野から来ないこと、また、スーツに取って代わるべき適度にフオーマルな服装が登場しないので、それが昇格してスーツを追いやることがない、というのが理由だろう。”
欧米でも、軍服からフロックコートが生まれ、乗馬服が燕尾服として昇格し、やがてタキシードに駆逐されていくわけで、定着してから百五十年以上たつスーツも、その中で当初の略装扱いから事実上の準礼装に格上げされた。今では改まった服装といえば、ほとんどダークスーツで事足り、タキシードすら追い上げられつつある。⇩
そして、江戸時代には格の低い服装であった羽織袴が明治以後は礼装であり、きわめてカジュアルな服装であった小袖の着流し姿が、今では「和服」というものの通常の形式としてほぼ礼装扱いである。というか、今や和服そのものが一種の礼装と見なされる。⇩
“ 服装の歴史は、前の時代の普段着が次の時代に礼装に昇格し、その次の時代には特別な衣装に祭り上げられて、挙げ句に消えていく、その繰り返しである。日本でも、平安貴族のハンティングジャケットだった狩衣(かりぎぬ)が、鎌倉、室町時代には礼装となり、江戸時代には高位の大名の式服となって、明治以後は神主以外に着る人はなくなった。平安庶民の着た直垂(ひたたれ)は鎌倉時代に武士の普段着となり、江戸時代には礼装に昇格したが、今では相撲の行司だけが着る衣装に近い。戦国時代に直垂の袖をカットした略装である肩衣袴(かたぎぬばかま)が江戸時代には裃としてフォーマルウエアとなったが、これは現在では時代劇専用の衣服だ。⇩
“ 建造環境とは、長い年月をかけて人びとの暮らしを通して自ずとなしてきたものである。そうした建造環境に建築家のほうが参加するのであって、その逆ではない ”
“ 誰もが持つ創造性を発揮し、自分なりの方法で「よりよく生きる」ことを考えるDIY(Do lt Yourself/自分でやってみる) ”
自分の金を他人に分けてやりたいと望む者など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、何と多くの人に分け与えてやることであろう。財産を維持することでは吝嗇家でありながら、事、時間の消費になると、貪欲が立派なこととされる唯一の事柄であるにもかかわらず、途端にこれ以上はない浪費家に豹変してしまうのである。”
“ 人は、誰か他人が自分の地所を占領しようとすれば、それを許さず、境界をめぐっていささかでも諍いが生じれば、石や武器に訴えてでも自分の地所を守ろうとするものである。ところが、自分の生となると、他人の侵入を許し、それどころか、自分の生の所有者となるかもしれない者をみずから招き入れさえする。⇩
私の愛は私にとって貴重であり、見境なくばらまくわけにはいかない。愛が課す義務には、犠牲を厭わないだけの覚悟が必要だ。私が誰かを愛する以上、その人は何らかのかたちで私の愛に値しなくてはならない。”
“ 快原理を成就する技法のひとつとしてわれわれが認めるこの愛については、たびたび宗教との関連が指摘されてきた。両者は、自我と対象との区別も対象相互の区別も念頭から消え去るあの遥か彼方の一連の領域で、互いに繋がりあっているのかもしれない。普遍的な人類愛や世界愛に開かれたこのような心の態勢こそが、人間が極めうる最高の徳性だと考える倫理的な見地もある。[…] われわれが引っかかりを覚える主な点を二つ挙げておきたい。ひとつには、好嫌の区別なき愛というのは、対象に対して不当であるから、愛としての自らの価値の一部を損なうように思われる。そしてもうひとつ、すべての人間が愛に値するということはない。⇩
… つまり、星座とは「世界の見方」であり、星を結ぶ者の主体的な行為である。それは真理の発見ではなく、真理の「創出」に近い。そこには、絶えず変化し、生成され続ける宇宙と、それを捉えようとする知性の共演がある。まさにホワイトヘッドが語る「創造的前進(creative advance)」の美である。

最終回において、星座を結ぶその手が、人間の思索と希望を象徴するのだとすれば、『チ。』とは、単なる天動説から地動説への転換の物語ではない。世界をどのように見るか、その「星座的再構成」の力を信じる者たちの物語である。私たちは、星を見るのではなく、「星座を描く存在」なのだ。”
… ホワイトヘッドにとって、現実とは固定されたモノの集まりではなく、「出来事」の絶えざる生成とその関係性の網の目である。各出来事は他の出来事を感受しながら自己を形成する。それは、宇宙が単に物理的な背景ではなく、「相互に感受され、意味づけられる構造」だということを示す。

星座は、孤立した星々を「結ぶ」ことによって立ち上がる構造だ。そこにこそ、ホワイトヘッド的な視座が宿る。世界はただ「在る」のではなく、関係の中で「意味として生成される」。その意味で、『チ。』の星座描写は、知の体系が権力によって閉ざされた暗黒の時代においても、関係性と思考によって新しい「世界=宇宙の像」が描きうることを示唆する。…
“ 【 星座が結ぶもの──『チ。』最終回とホワイトヘッド的宇宙 】

夜空を見上げたとき、私たちは「星」を見る。しかし、それだけでは足りない。私たちはしばしば星と星を結び、そこに「星座」を描き出す。線を引くことで、意味を作る。宇宙にあるのは無数の光点にすぎないが、それを物語として構成するのは人間の営みである。

アニメ『チ。』の最終回――そのクライマックスで描かれる星座のシーンは、まさにこの「意味を結び直す」営みの象徴である。バラバラに輝く星々は、見る者の視点、知、意志によって結び直され、新たな形を成す。その行為は、ホワイトヘッドの過程哲学における「関係性の宇宙観」と重なる。…
“ かろうじて此岸に留まりうる存在にとっての装いとは、「無」がこの世界にかろうじて触れていられるための足がかりであり、浮遊しないための重しでもある。装いは身体を被うものではなく、むしろ身体を生成する条件そのものとなる。”
“ 装いとは「自分の一部でありながら、自分を超えて開かれた身振り」なのです。”
“ 人と服の間にある「空気」という要素は、単なる物理的な余白ではなく、他者や世界との接点としての〝感受の場〟でもあります。それがあることで、服は自分の輪郭を硬く固定するものから、状況や関係に応じて呼吸するものへと変化します。自己の延長ではなく、他者と共にある身体の立ち上がりとしてとらえることができるのです。”
“ 着物は「服の中に身体がある」のではなく、「身体が服を纏う動作によって場に立ち現れる」感覚を前提としています。それは実体ではなく、時間や風景の中で変化する〝存在〟としての人間を映し出す装いなのです。”
“ あらゆる人間が一番先に、何よりも確実に知ることができ、知ってもいるのは、自分の目指している幸福である。それから同じくらい確実に人は、その幸福を示してくれる理性を知り、さらにその理性に従属している自己の動物的なものを知り、そのあとで空間と時間の中で目に映ずる他のすべての現象を、これはもはや知るのではなく、見るのである。”
“「技法」の役割は「現象」の上に「現象」に抗して「見かけ=仮象」を打ち立てると共に、「見かけ」に「現象」の充実と意義を与える所にある。
「技法」は自由という形式のもとで「見かけ」と「現象」を相互に打ち消す力を持っているのだ。”
“ 充分に不幸ではないという不幸…… ”
“ ゆらぎや移ろいの余地があるからこそ、ものごとは続いてゆくのかもしれません。”
… たとえばタトゥーなどの身体加工・身体改造がもつ、自己の境界を再確定し、身体を自身につなぎとめつつも、同時に、いちど形成された境界や自己イメージを、侵犯し破壊してゆく作用などである。このような「他者性」は、身体の自己管理という言説がもたらす抑圧への、ひとつのオルタナティブな可能性として機能するのではないだろうか。”