タルミチ
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タルミチ
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探偵小説、木々高太郎、愛知
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既視感の理由を思い出せずにいたのだが、スチュアート・ヒューズ『意識と社会』である程度整理されている議論でしたね。
本日、美術館の展示に出てきたガブリエル・タルドの議論を眺めていて、以上のようなことを考えた。その後ちょいと調べて、類似の発見をイメージの発見と結びつける、という発想も関連付けるのであればエドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』にも遡れることも知る。似たような言説が多すぎて、メルロ=ポンティを百科全書的な哲学者じゃない、と語った廣松渉の言葉の重みを感じます。
ここしばらくメルロ=ポンティ関連の著作を読み進めている。同時代の状況を知ることができて面白いのだが、およそメルロ=ポンティのよい読者ではないのだろうと思う。偶然、生理学・心理学関連の同時代状況を知っていたために、メルロ=ポンティの人間の内外をとりまくシステムをいかに包括的に把握するのか、という問題意識に同時代性を感じてしまうからだ。勿論、この発想には飛躍がある。個々の人物かいかなる疑問に思索を巡らせてきたかを精査せねばいけないし、一概に同じだと談じてしまうのは怪しい。危うい飛躍に陥らないように自らを律していかねばならないわけで、思想史家や哲学史家の方々の苦労を実感した次第。
日本民藝館、というか民藝の多くの人々は落合陽一をどのように捉えているのだろうか。
現代をポストモダンといったり、ポストモダン以後の混沌と語る方々が、社会のもろもろを説明するのにあるタームによる二分法で済ませてしまうのはなぜなのか。それが三つや四つになろうと数えられるもので説明して混沌といえるのだろうか。二分法じゃないと人間は理解しにくいという事情はありますが、たとえたたき台の議論だとしても、疑問を抱くことはないのだろうか。
切通理作によるセカイの風景についての語りを、彼の山田洋次論と合わせて考えるとどうだろうか。
『セカイ系入門』、読んだら読書会をしたくなる予感があります。
読者は、批評をプロレスと格闘技、どちらとして受容しているのだろうか。U系という筋もあるのかもしれないけど、ふと気になったこと。
Reposted by タルミチ
新法ができて、出版社がライターに対して注文書を事前に送付するなど、これまでなあなあにされてきたことが改善されているのはいいのだけど、物価上昇率に対して単価が据え置きという肝腎の部分がまったく改善されていないので、絵に描いた餅にしかなっていない。改善しなくちゃいけないのはまずそこ。
『ブギーポップ・ナイトメア 悪夢と踊るな子供たち』を読む。『VSイマジネーター』から一歩進んだ問題を扱っているのもあるが、「ブギーポップ」シリーズがはじまって四半世紀、その描き方から作者が成長による変化を明確に与えようとしているのが織機綺なのではないか。
メルロ=ポンティ、戦前の心理学・生理学の動向を知っていると、同時代を並走していることがよくわかる。入門書でもゲシュタルト心理学や精神分析とのかかわりが指摘されているが、身体図式も行動主義・新行動主義心理学からすれば条件付けといわれそうである。
問題発言で注目を集める集団を批判することが、かえって注目を集める原因となるのだ、という意見はわかる。が、戯言として暴論を批判してこなかったことへの反省から動いているパターンもあるし、暴論を垂れ流しにしてはいけまい。なのでこの手の意見には、過去への反省をどうとらえているのか疑問がある。
笹沢左保が忘れられた作家として語られているのを耳にしたのだが、『木枯し紋次郎』は懐かしのドラマで良く紹介されるし、「東西ミステリーベスト100」や『有栖川有栖の密室大図鑑』にも名前が出てくる。近年も東京創元社、徳間書店から文庫が複数出てますし、単純に普段触れているジャンルが異なるだけなのではないかと感じた。
ジークアクス、個人的に気になるのは、正史から新たなる足場を作る実践として、グリッサンらクレオールの想像力とどこまで肉薄しているのか、ですね。
ゴジラ関連から「免責のプロトコル」(byてらまっとさん)を検討することになりそうだ。
岡本太郎の縄文への関心と、落合陽一の神道への結び付き、さらに高山市の民芸館に落合の社があることは繋がっていくのかな。
回ってきた落合陽一のパビリオン映像を観たが、タローマンとセットだとより面白そうだ。
考察させられることと、踊らされることとの差異を検討するころになってるのかな。
実存的なためらいに対して構図的な議論を要求する(ように見える)やり取りを聞いていると、論では語り落されるものの発生に立ち会っているようであった。
昨日レシートを整理しながら某スペースを聞いていたのだが、明治以降の日本への資本主義・体系的自然科学の流入をキリスト教神学を重視する理由として、さらに正統にはグノーシス主義が入りこみながら曲折を経て現代に至ることからグノーシスにポテンシャルを見出しているという議論を聞いていた。明治以前以後の断絶と連続、地政学などが想定されているのか、よくわからなかった。あとは議題にも上がっていたが、現代の宗教と政治との関係の実情が踏まえられているのか。個人的には綺麗な構図として神学(当人は思考法といっていたが)をもってくるよりも、日本において「私が諸島である」で語られたを検討する必要性を感じている。
モダニズムは、なにかと身体・神秘(神話)・原始性・システムを引き寄せてしまう。
手塚治虫とアンディ・ウォーホルは共に1928年生まれで、ほぼ同じ時代を生きたんですね。
モダニズムというスタイルが、イデア論や絶対矛盾的自己同一に近づくのだろうか。
フランス現代思想において「神話」が検討される際の問題意識、姿勢と、現代日本の批評において「神話」が議論されるときの態度には隔たりがあるのではないか。「宗教」との対峙には大きな差があるように見える。
急遽、バタイユ、デリダ、バルトを読むことになった。