erica
@ericayou.bsky.social
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「蚊に刺されてもまったく動じず痒みを無視できる」が特技です https://note.com/no8where
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前にも似たようなポストをしたけど、終わらせるっていうのはカオスから現実的な要素を還元して収束させてしまう、夢から覚めて正気に戻ってきてしまう営みなところがあって、作者としてはそうしたくない、行為として悪あがきに近い場合もあるだろう。それまでの物語を決定的に変質させてしまうのが「終わり」なのだと思う。
単話連載形式だろうが個人作家の大長編書き下ろしだろうが、「序盤は明るくて短絡的、希望に溢れている作品が、終盤救いようがないほど閉鎖的で絶望しか残らない話になる」ケースは、恐らく媒体問わずどの時代にもある、「物語ることが個人に委ねられた」ことからくる物語自体に仕組まれた欠陥なのだと思う。アニメや映画という集団制作においても十分起きうるが。(なので特定の作家個人がことさら意地が悪く紋切り型の筋書きしか持っていないわけではない)
マリみて「私の巣(マイ・ネスト)」は、個人的に「いばらの森」のアンサーになるような連作だな⋯⋯と思いながら読んでいる。人物の多さも恋愛の有無もまるで違う一方で、どちらも居場所をめぐる話だと思う。かたや思い詰めて居場所も同伴するひとも失い(そうになり)、かたや家族が再編されるにあたって居場所を再構築してゆくなかで同伴者たちと向き合ってゆく。佐藤聖もこうであればと単純に移植して済む話ではないが、今野緒雪の解釈が到達した一つの最高点なのではないか。
あたしンちのみかんの友達ゆかりんって池澤春菜の完全憑依役なんだけど、おぼろげにしか知らなかった「新あたしンち」をチラッと見てみたら更にキャラへの理解を掘り下げた演技をしていた。続編で深まることあんねや。
YouTubeでいがらしゆみこ「ジョージィ!」アニメ第一話を見る。EDが83年時点でもまだ生きていたのか⋯⋯!と思うような少女画そのもので、そのことがより作品をクラシカルに見せているのだけど、思えばセーラームーン一期のED「プリンセス・ムーン」のバックもラファエル前派みたいな象徴的に姫─少女の処女性を象ったものだったのを思い起こさせる。中原淳一や高畠華宵の少女画はアニメのカットに引き継がれてきたのかな、など。
女性声優や女性漫画家が次々オモコロ(展)に絡みにいってる週間
あたしンちは画風作風そのままでしっかりイヤなもの汚いものを挟んでくるのがすごい
あたしンちって10年くらい前までのインターネットでは男尊女卑夫婦観とかネグレクトとか毒親だとか重箱の隅系の話でばっか盛り上がってるイメージだった。世代が入れ替わって斜に構える習慣がなくなったんだろうけど、絶賛しか集まらないのを見るとさみしくもある。
こういうコードって階層的な差異の誇張やメタファーだったりするから、世代をまたぐとそりゃ通じなくなっていくよね⋯⋯という。ナージャがいまいち成功しなかったのもそのへんのディティールが当時の年少世代に通じなかったからなのでは。
演技は置いといて、アニメらしいコミカルなデフォルメされた演技演出が息をつかせぬ頻度で挿入されていて素晴らしい。真の意味で"キャラクター"表現とでも言うか。テンプレがそのまま"お約束"ではなく作品を成立させるコードとして機能していた昭和〜平成初期のノリを持ち越して成功していた最後の世代なのでは。
数年ぶりにおジャ魔女ドッカ〜ンを見てみたが、大谷育江の声優レベルがその他全キャラクターの存在感を完封してもーとるな
【あまりにも直感に反していること】ニットの綴り
ヲタクグッズのランダム商法に反発が起きるのって何故なんだ。誰も全種コンプリートしろなんて強制してなくないか。
4分33秒、タイトルがネタバレかましてるしそこにドヤ感も嗅ぎ取ってしまうのでおもんな⋯⋯と思っている
【いると楽しい】フィラーの代わりにアイキャッチロゴを挟む人
ここ数年の日本画メインの美術館の企画展ポスタービジュアル、激滑りしてるのしか見たことない
インテリアBeforeAfterを見て思うこと「自然光いれろ」
ぜんぜん関係ないけど、プリパラやアイカツ!の世界ほどコーディネート(何を着るか)が政治的に扱われてる世界もないと思う
村上春樹は若い頃のエッセイで「政治なんてくだらない。投票を呼びかけて家に来るようなやつらはテキトーにからかっちゃうもんね〜」みたいなことを言っていたが、あれはあれでその時代のあり方で、いま同じことはしないだろうなと思う。
かと言って「政治に期待なんかするのは無駄」とか「選挙なんて意味ない」とか言うのもしょうもない態度であるし、逆に政治の直接性を補強しているような無意味さがある。そうではなくて、「政治」という言葉を取り戻すではないけれど、議会政治や行政府、立法府とは別の位相の政治があり、政治参加がある、という方面を真剣に考えたほうがいい。
あとは単純に、政治の推し活化並びに推し文化全体に言えるけれども、「誰かのために」を行動原理に据えてる人って全員イッちゃってるんだよね⋯⋯(絶頂している)。対象や目的はどうでもよくて、熱中できてかつそれが他者や周囲に影響を与えているというファンタジーの中にいる人は、全員快感に満たされてるので、何言ってもしゃーない。
参政党躍進の理由は支持者たちに「自分たちの声が届き政治に(世界に)反映される」、「みんなで作る政治」のような幻想を与えたことにあるのではないか。むしろ党の側はそれを目的として「彼らの声」を吸い上げて自分たちのゴールポストを作った。つまり政治の(世界の)直接性という幻想だが、それは政治や選挙というシステムの誤認であって願望である。少なくとも議会政治は席取りゲームやイメージの世界なのだけど、そう言った幻想や願望を抱く人々は現実にいて、それを叶えること事態が政治の一つの役割でもある。
capsule聴いてる。エレクトロニックとはいえリズムのアタックが異様に強い気がして、単調なのもあって民族宗教の儀礼のビートを思わせる。新しい信仰。考えてみれば1か0かの世界ですべての音=1を生み出し束ね上げてそこに本来はなかった調和を0から図るのはとても創造的な行為な気がする。
ゴールポストをずらすというか、ゴールポストの向こう側を目指していくことが大事みたいな。ただ嫌な言い方をすれば当初の問題自体はやり過ごしちゃってるので、先送りにしてると言えばそう。キンプリSSSもそう。個々人の問題(主に内面の障害)はショーに昇華させたことでわりとなあなあになってしまって、そのツケがキンツア予告の「プリズムIII(仮)」に形を変えてでてきてると。
プリパラでよくあるパターンだけれども、何か(誰かに)問題が起きたとき、わりと明快に原因が明らかかつ過大で、傍目には手に負えない&相当綿密に手を講じなければいけないんだけれども、主人公の「がんばるぞ」の勢いでだいたい問題自体がどっか行ってしまって、周りの人間も巻き込んでなんとなく糸口が見えたらそこに一直線に向かってく方に切り替える、というストーリーテリングがある。単に尺が足りないとか子供向けだからで説明がつくんだけれども、恐らくこれはアプローチとしてはかなり本質的だと思われる。必要なのは「答え」じゃなくて「がんばるぞ」なんだって。